第九話 杏里と傷跡(後)

 杏里が見つかったという知らせに真と彼方は走っていた。

 彼女が発見されたのはアパートの前だと言う。

 だが真はあの衝撃的な真実に頭が混乱していた。

 まさか杏里が虐待を受けていたとは。

 だから、初めて会ったときも自分のことを避けていたのだ。

 また自分に何かするのではないかと思い。

「真、お前どうする気だよ?」

「何が……?」

「その、杏里先輩だっけ? 思った以上に傷が深いようだし、手はあるのか?」

「……そんなもんないよ」

 真が答える。

 自分が人の気持ちを動かせるほどの技量がないことくらい重々承知している。

 打つ手は無い。

 けど、何かしなければならない。

 このまま人の事を信じないで生きるのも酷い話である。

 だから、気付かせる必要がある。

「くそ……!」

***

 彼女は人が信じられなかった。

 信じたくなかった。

 もう誰も、何も。

 会う人会う人自分に何かする。

 例え今はしなくても。

 狙っている。

 その時間を。

「………………どうして」

 彼女の目から涙が流れる。

「………………どうして誰も守ってくれないの?」

 父も、二人目の母も。

 誰も守ってくれなかった。

「…………………ねえ、お母さん……」

 唯一前の母だけは彼女は信じていた。

 そうは言っても早くに亡くなってしまったが。

 杏里の生みの母は、いつも彼女に対して優しかった。

 食事をこぼしても。

 食器を割っても。

 服を汚しても。

 生みの母は怒りこそしたが、それでも必ずこう言った。

 次から気をつければいいから、ね。

 そう言って杏里のことを優しい目で見て、頭を撫でていた。

 その事が頭の中でよみがえる。

「もう……嫌だ」

 会いたい。

 母に。

 母に会いたい。

 杏里はカッターを手にした。

***

 それから数分の後だった。

 ひなたと沙耶が合流し、杏里を見つけた。

 そのとき既に彼女は気を失っていた。

 手首から血を流して。

「杏里ちゃん!?」

「ちょっと……何してるのよ!」

 二人が急いで止血・応急処置を施すが血が止まらない。

 息が荒くなる杏里。

 沙耶が携帯を取り出し、涼子・亜貴・和日・真に連絡をする。

 まずたどり着いたのは亜貴だった。

 その現状に驚き。

 次に和日。

 現実を受け入れたくないのか、目をそらす。

 そして涼子。

 杏里に駆け寄り叫ぶ。

 次第にその騒ぎを聞きつけ、人の壁が出来ていた。

 その壁を書き分け、真と彼方がついた。

「ちょっ……杏里先輩!?」

「きゅ………救急車を、早く!」

 彼方が携帯を取り出し救急車を呼ぶ。

 こうしている間にも杏里の顔色は悪くなっていく。

 血液恐怖症の真にとって、それは地獄のような光景だった。

 でもその悲惨な光景を見過ごすわけには行かなくて。

 真は叫んだ。

「何なんだよ、これは!!」

 6分後、救急車が駆けつけ杏里を運んでいく。

 運ばれるのは蒼橋私立中央病院。

 涼子達も付き添うために救急車に。

 ひなたが乗ろうとした時。

 真が彼女の手首を掴んだ。

「塚原……さん?」

「頼みがあります」

***

 蒼橋学園2年3組前。

「あの、止めたほうが……」

「い・や・です。こうなったのも暴言吐いた奴らが悪いんですから」

 ひなたの静止を降りきり教室にはいる。

「あんた達ですか?」

「何よ。あたしたち忙しいんだけど〜」

「嘘つけよ……大して綺麗にならないメイクなんざしやがって……」

 思い切り見下す真。

 それにカチンと来た女子二人。

 立ち上がり、メンチを切る。

「大体ナンナワケよ、アンタ。いきなりここに来たと思ったらそんなこと言ってさぁ〜」

「ぶっちゃけ、ウザイんだけど〜? さっさと消えてくれない?」

「あんた達がね。そんな事している暇が会ったら謝罪の一言でも言えばいいのに」

 謝罪と言う言葉にとぼける二人。

「誰に謝るのよ? 私たち別に悪いことしてないしぃ」

「杏里先輩に謝れ」

「杏里? ああ、あの施設の子? 何で?」

「…………あの人が何をしたかわからないからそう言うことを言えるんだ!」

 真が切れた。

 真っ直ぐに女子二人を睨む。

 この年頃の女子は口が達者。

 男子は不利ではある。

「杏里先輩は、死のうとしたんだぞ! 思い悩んで、手首を切って流血して! あんたらの言葉がどれだけあの人を傷つけたのか、分かってるのか!!」

 杏里が死のうとした事に、二人は驚いた様子。

 流石にそこまで思い込んでいたとは考えていなかったのだろう。

「自分達が何をしたのか……よく考えるんだな!」

 真が教室を出る。

 嵐が過ぎ去った後のようにしんと静まり返る。

「塚原さん……」

「……病院に、行きましょう」

***

 杏里は眠っていた。

 命に別状はなく、傷も深くないという。

 こうして眠っている姿を見ると普通の少女にしか見えない。

 だが、彼女は誰よりも深い溝を、傷を負っている。

「………」

 誰も喋ろうとしない。

 皆この現実にショックを受けていたから。

「……………ん」

 杏里がうっすらと眼を開ける。

「ここ……は?」

「病院よ。まったく、何であんなことしたのよ」

 涼子が言う。

 皆の今の気持ちを代弁したのだ。

 杏里は黙った。

「お母さんに………………会いたかったから」

 彼女の言うお母さんは生みの母。

 生みの母はもういない。

 息をのんだ。

「死ねば、お母さんに……会えると思ったから……」

「そんな……」

 今の彼女に必要なのは死ぬことではない。

 守ってくれる人が必要なのだ。

 これまで真以外の寮の皆は杏里を守ってきたつもりだった。

 しかし何も守れていない。

 彼女は日に日に追い詰められていたのだ。

「どうして、俺達に相談してくれなかったんですか?」

 真がいう。

 せめて悩んでいるなら一言、話してくれれば良かったのに。

「先輩の事、施設の人から聞きました。そのせいで対人恐怖症になった。だから初対面の時、俺のこと避けたんですよね」

「…………」

「でも、人って一人じゃ生きられないんですよ? 俺もそのこと、最近知りました」

 数年前、真の前から一人の女性が消えた。

 事故に巻き込まれ、行方不明に。

 その人のことを真はとても慕っていた。

 いつも支えてくれて、逆に支えて。

 互いの事を思いながら過ごしてきた。

 しかしある日の事。

「だから、もう少し俺の……違うな、俺達に心を開いても良いんですよ?」

 考えるのをやめる。

 これ以上思い出したくなかったから。

「先輩をいじめるような人がいれば、俺たちが守りますよ。さっきだって先輩に暴言吐いた奴等に一言言ってきたんですから」

「あ、それで遅かったのね?」

「そうですよ。余計なお世話だったかもしれない。望んでいなかった事かもしれない。でも、俺はただ単に許せなかった。人の傷をえぐって、苦しめて……」

 拳を握る。

「だから……っ!」

「……………ありがとう」

 杏里が発した声は小さく。

 弱弱しい物だった。

「余計な、お世話じゃないよ……。あなたはそんなにも優しかった。私、嬉しいの……」

「先輩……」

「あり、が……とうね」

 杏里の意識が落ちた。

 眠りについたのだ、彼女は。

 そう、長い眠りに。

***

 3日が過ぎた。

 その間に病院には暴言を吐いた二人が見舞いに表れたものの、杏里は目を開けなかった。

「おはようございます」

 真が居間に顔を出した。

 ひなたが答える。

「おはようございます。今朝のご飯は白飯と佃煮、お味噌汁ですよ」

「うは、おいしそうですね」

「分かったらさっさと手伝う! このスカタン〜!」

「ちょっ……和日先輩! やめっ……てええええええええええ!!」

 絶叫する。

「もう、朝からうるさいわよ……ふあ・・・」

「おはようございます、涼子先輩!」

「ん、おはよ」

 亜貴と沙耶も起きて来る。

 そして。

「……おはよう」

「おはよう、杏里ちゃん」

「先輩、おはようございます」

 杏里は退院した。

 3日3晩病院で寝ていた彼女。

 居間までの心労が無くなったのか、よく眠っていたのだ。

「私も、手伝うね」

「うん」

 何はともあれ今日は休み。

 そうゴールデンウィークの始まりだ。

「今日は午前中が部活ですね、塚原さん」

「あー、そうだったですね……」

 最近真の腕が上がってきていると専らの噂である。

 とは言えまだまだ弓を持つ事はできないが。

「俺も午前中は部活だ、後で行って来る」

「涼子先輩とかっちゃんと沙耶ちゃんは?」

「ん? 私は午前中は疲れたから休んで、午後はお昼寝」

「それって………一日中ごろごろしてるって事よね、姉さん」

 沙耶が突っ込む。

 ちなみに沙耶は午前中は図書館にて宿題。

 和日は友達と出かけるとの事。

「杏里ちゃんは?」

「私は……施設に行って来る」

「施設に?」

「うん。迷惑、かけたから……」

 それぞれの一日が始まる。

 今日も、いつもと変わらない一日が。

(第九話  完)


   
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