第七十四話 競歩大会(前)

 10月12日、月曜日。

 そろそろ寒くなり始めた。

 起きる事さえ億劫になる、この時期に。

 蒼橋学園では定例行事がある。

 競歩大会である。

 そのタイムを競う者。

 のんびりとゴールを目指す者。

 早々にリタイアする者など様々な人間模様が見られる競歩大会。

 それが2日後の水曜日に迫っていた。

 この時期になると体育の授業では競歩大会の練習と称して、学園の周りを20分の持久走を強いられる。

 もちろん、走るのが得意な生徒ならば苦ではないのだが、大半の生徒が億劫になるのは言うまでもない。

「む」

 目が覚める。

 今日も定時に起きた真。

 そして何時もどおり着替え、下に降りる。

「おはよー」

「はよー」

 椅子に座り、朝食を口に運ぶ。

 眠そうな真を心配する風華。

 彼女も真から今週の競歩大会の事は聞いていた。

 その練習に加えて、先日のくうの騒動。

 疲れているのだ。

「しんちゃん、走るの苦手だもんねー」

「ねー。走るのだけはどうもだめだわ」

 もくもくと食べながら話す。

「そもそも、競歩大会なんて何のために……」

「まぁ学生の息抜きイベントと思っていれば良いのよ」

「あら、涼子ちゃん」

 涼子がよこから出てきて真の食べようとしていたベーコンを摘む。

 あー、と情けない声を出す真に対して。

「確か、もっと昔はちゃんとした名目があったんだけど何時の間にかそれも風化してね」

「ふーか?」

「違うわよ」

「ですよねー」

 そのあたりの事はまた今度担任の真由辺りにでも聞くとして。

 涼子の話では競歩大会と言うものはかなりフリーダムな大会らしい。

 まず、妙なことをしなけばリタイアなどまずありえないという。

 各所に設けられたチェックポイントにカードを出す。

 時間内にそれを出せばよし。

 遅れても30分ほどは待ってくれると言う。

 それを過ぎたら、強制リタイアとなってしまうが。

 チェックポイント間の間隔が短い上、その辺の事は微妙に曖昧なのでリタイアする生徒は少ないと言う。

 さらに昼食の持込が可能という点もある。

 速い生徒は昼ごろには戻ってくるのだが、普通に歩く生徒は昼など当に越えてしまう。

 そこで設けられているのが昼食の持込が可能というシステムである。

 生徒はおむすびやパンを持ち込み、好きな場所で食べるのだ。

 もちろん出したゴミはきちんともって帰るのがルール。

「だから結構楽なもんよ? 競歩大会なんて」

「そうは言いますがね……」

「それに、特例だけど大会が近い部活の生徒は最初のチェックポイントで帰れるし」

 それを先に聞きたかったが、生憎弓道部はこの10月に大会は無い。

 11月にはあるのだが。

「ふーねぇも走れば? 一応寮の人間だし」

「生徒じゃないもん」

 彼女もやはり真の姉と言ったところか。

 走るのは得意ではない。

 何はともあれその競歩大会の一日さえ終われば、暫くは学校の行事も無い。

 無事に終わるのを祈るだけだ。

***

 その日の昼。

 真と彼方、七海と遥が集まって昼食を食べていた。

 口を開けば競歩大会の事ばかり話をしている。

「でも、ま、ぶつぶつ言っても仕方が無いだろ。大人しく走れ」

「彼方はサッカー部で走ってるから良いじゃないか。俺なんて……」

 弓道部で走ることは滅多に無い。

 走ったが最後、注意を受けるのが関の山である。

「それにしても、どうしてこう競歩大会なんて面倒な行事があるんですの?」

「最後まで走りとおすことで諦めない心を養うとか云々……七海はそういうの苦手そうだもんなー」

「確かに。有馬さんは?」

「私は……」

 遥が口ごもる。

 まるでこの空気では何か言えない、言ってはいけないような様子。

「その、走るの好きなの」

「……え」

 真も彼方も初耳だった。

 のんびりとしている遥がまさか走るのが好きとは。

 いや、まだ好きといっただけで走るのが速いとは彼女も言っていない。

 そこで真は思い出した。

 最近の体育の授業でロードワークをする。

 その中で、彼方に追い越されたり姿を見ることはあっても、遥かの姿を見ることはなかった。

 自分よりも後ろにいるものだと思っていたが、もしかすると。

 そんな考えが真の頭に浮かんだ。

「もしかして、有馬さんって好きなだけじゃなくて走るの……速い?」

「た、それはどうかしら……」

 謙遜しているのか、余計な空気を作りたくないのか。

 それは彼女にしか分からない。

「なぁ、真。どうでもいい話しても良いか?」

 突然、彼方が口を開いた。

 どうでも良い話という。

 どうでも良いのならば聞かなくても良いだろうと、一瞬思ったのだがそれでは付き合いが悪いか。

「何だよ」

 とりあえず話を聞く。

「さくら寮に、ねーちゃんいるじゃない」

「ふーねぇ? ああ、いるけど」

「あの人ってさ、日中、家事とかしてるんだろ?」

 頷くまでもない。

 布団を取り込んだり、掃除をしたり。

 確かに日中の彼女の仕事は家事全般と言っても間違いではない。

「それってさ、ねーちゃん……メイドさんと一緒じゃね?」

 本当にどうでもいい話だった。

 彼方曰く、ふと思いついたと言うが。

 そう思うのも無理は無いと言うか、当の真はそんなこと思ってもいなかった。

「そんなこと本人に言ってみろ。喜んで買ってくるぞ、服を」

「マジか。ちょっと言ってくる」

「座ってろ」

 無理やり座らせる。

 そんな事されたら、出掛けから帰るまで本当にゲームの世界だ。

 ちょっとした恐怖と、ちょっとした興味がわきあがる。

「ま、まぁまぁ落ち着いて……」

「あら、案外似合うかもしれませんわよ。ああいうやんわりとした人には」

「あれ、思いの他好評……?」

 真の考えとはほとんど逆の反応ばかりだった。

***

 火曜日。

 3間目が体育の授業。

 今日も耐久20分間走。

 今日も肩で息をしながら走る真。

 こうも体が言うことを聞かないとは思わなかった。

 本番は明日だと言うのに。

 どんどんと抜かれていく。

 結局、その日の耐久20分間走は3週が限度だった。

 乾いた空気によって痛められた喉を気にする。

「よっ、お疲れ」

「かなだ……ごほ」

「何だ、俺は外国だったのか」

 咳払いをする真。

 彼方は何とも無さそうだ。

 いよいよ明日は競歩大会本番。

 それだと言うのに真のコンディションは最悪だった。

 競歩大会に対する不安。

 その不安からくる胃が締まるような感覚。

 その全てが真の体調をマイナスの方向へ引っ張っている。

「あー、早く終わらないかなぁ……競歩大会」

 憂鬱で仕方ない。

 その頃、2年3組。

「明日だねぇ、競歩大会」

「かっちゃん、何でそんなに元気なの……」

 杏里がぽつりぽつりと言うが、まるで和日には関係ない。

「なんにしても怪我をせず、自分のペースで頑張れば良いんですよ」

「ひなちゃんが言うなら仕方ないなぁ」

 まるで残念そうに言う和日。

 何かを狙っていたのだろうか。

 この競歩大会では上位10名まで賞状とメダルが出る。

 毎年それを狙う生徒が必ずいるのだ。

 さくら寮では和日が数少ないその生徒に入る。

 昨年は取れなかったので、今年こそ雪辱を晴らそうと言う魂胆である。

 しかし、無理をして体を壊したりしたら元も子もない。

 その点ではひなたの「無理なく頑張る」と言う意見がもっともなのかもしれない。

「それにしてもまた今年もあのコースを走るの……?」

「そうそう毎年コースなんて変わらないわよ」

 あのコースとは、競歩大会のコースの事で。

 主に山道を走るのだ。

 その中には傾斜がきつく、距離もある長い坂道がある。

 そのことを思い出しただけでも、やる気がそげてしまう。

「た、確かにあの坂道をきつかったですが……そのほかの道はそこまで……」

「あの坂道に差し掛かるよりも前にリタイアするのも手かもね」

「……かっちゃん、ひどい」

***

 その日の部活は全て休みとなっている。

 明日が一日かけての体育行事のためと言う事だ。

「明日に備えて今日は皆さん早く寝てくださいね」

 リビングにいる真、涼子、沙耶、杏里、亜貴、和日に対してひなたが告げる。

 ひなたに言われなくとも、そこにいる全員は今日は早めに寝るつもりではあった。

「風華さん、申し訳ないですが全員分のおにぎりを作るの手伝っていただけませんか?」

「いいよー、今日の夜作るんでしょ?」

「ええ、明日の朝ではとても……」

 風華が快く承諾してくれたひなたはほっと胸をなでおろした。

 そんなやり取りを見ていたとき、真はふと思い出した。

「そういえば、幽霊さんはどうするんすか」

「はぁ、私ですか」

 どこからともなく幽霊さんが出てくる。

 幽霊である彼女がまさか走るとは思えない。

 かと言って浮遊しながらの参加も出来るとは思えない。

「私は不参加で。ゴール地点でうろうろしてますから」

「サボリですね、分かります」

「ちがいますー」

 とたんに真の体が動かなくなる。

 金縛りにでもあったかのように。

「と、冗談は置いといて。今日は9時にでも寝るかな。明日って何時登校でしたっけ?」

「8時30分には、グラウンド集合です。遅れないようにしてくださいね」

 そのやり取りを見ていた風華が、涼子にこっそりと言う。

「ああいうのは遅刻するフラグなのよ」

「風華さん、日に日にネット廃人になってないかしら」

 あながち間違っていない意見である。

 そんなフラグがどうのと言う話を流して、遅刻をしてしまっては参加どころの騒ぎではない。

 今日は一先ず夕食を早めに食べて寝ると言う話で落ち着いた。

***

 楽しみのある日がくるのは待ち遠しいくせに、気持ちの沈むような辛い行事のあるときはすぐにやってくる。

 そんな妙な感覚。

 気付けば朝だったのだ。

 運命の、水曜日。


(第七十四話  完)


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