第七十五話 競歩大会(後)

 10月14日、水曜日。

 さて、競歩大会当日。

 10月ということで外はひんやりとした空気が漂っている。

 道行く人々もコートを着るなどして防寒対策を施している。

 さくら寮でも、競歩大会に向けて準備をしているのだが。

 ただ一人だけ、遅れている人物がいた。

「すー……」

 真は一人眠っていた。

 前日まで、色々と考え事をしていた。

 むやみに頭を使ったため、いつもよりも深い眠りについていたのだ。

 そんな真が寝返りをうつ。

 その反動か、はたまた体が起きなければいけないと確信したのか。

 真は目を覚ました。

 その手で目覚まし時計を掴み。

 眼が覚める。

「ぬわぁぁぁぁっ!?」

 素っ頓狂極まりない声で飛び起き、リビングに顔を出す。

 皆準備を終え、今にも寮を出るところ。

 きょとんとしている。

「あら、おはよう」

 涼子がニヤニヤと笑みを浮かべながら言う。

 何か訳がある。

 そう考え、近くにいた沙耶に声をかける。

「ああ、姉さんね。8時までに君が起きて来るかどうか、賭けをしていたのよ。現在8時3分。姉さんは起きて来ないに賭けたのよ」

「何てことを……! ふーねぇも起こしてくれれば良いのに!!」

「起こしに行ったわよー? 体ゆすったり、ちゅーしたり」

「したの!?」

 とんでもないことをさらりと言われ、朝から疲れてしまう。

 もちろん、それは冗談。

 振り回されっぱなしで、今日が何の日かさえ頭から抜け落ちそうになる。

「それより、準備は……」

 もうそろそろ寮を出ないと本気で間に合わない。

 心配したひなたが真に声をかける。

 慌てて洗面所に向かい歯を磨き、顔を洗い。

 ジャージに着替えて再び一階に。

 持ち物の確認をし、万全の状態になったのは8時20分。

 学校まで走って5分。

 集合は8時30分。

 つまりはギリギリで。

 一分たりとも無駄には出来ない。

「しんちゃー、お弁当ー」

「あー、はいはい! 行ってくるー!」

 何か大きなホイル巻を慌しくリュックに詰め込む。

 その剣幕に口を3の字にしてブーイングする。

「んもー、あんなに慌てるのならもっと早くに起きれば良いのにー。いっその事本当にちゅーでもしてやろうかしらん」

「ですねー」

「あら、幽霊ちゃん。競歩大会は?」

「死んでますから」

「ですよねー」

***

 既に校庭には、生徒が並び始めていた。

 まずは開会式を行い、最初に女子のスタート。

 10分後に男子のスタートとなる。

 真は何とか開会式の始まる直前に校庭にたどり着いた。

 これから競歩をするというのに、朝から走ってしまい体力だけを悪戯に消耗してしまった。

 これでは後々だるくなるだけではないか。

 自己嫌悪。

 自分のクラスの列を見つけ、最後尾にこっそりと並ぶ。

「なんだよ、いいんちょ。遅刻かよ」

「馬鹿を、言え……ぜぇ、遅刻じゃぁない……」

 肩で息をし、声をかけてきた男子生徒に答える。

 朝からこの調子では、今日一日思いやられるというもの。

 競歩大会開催に先駆け、何時も通りの校長の挨拶。

 そして準備運動を行う。

 毎年競歩大会では必ずといって良いほど、棄権者が出る。

 足が攣る生徒、転んで血を流す生徒。

 はたまたサボりたいがためにどうのこうのと理由をつける生徒。

 実に多種多様。

 準備運動が終わったのは8時50分。

 女子のスタートは9時。

 一気に騒がしくなる校庭入り口。

「彼方様ー、後で一緒に走りませんことー?」

「あー、いいなぁ、それもー」

 彼方は七海となにやら約束をしている。

 明らかに七海は彼方を待ちますと公言している。

 遠回りに手を抜いて走りますといっているようなものだ。

 その少し離れたところでは亜貴が寅美に絡まれていた。

 以前より何かにつけて亜貴にちょっかいを出してくる寅美。

 この競歩大会でも、どちらの順位が上か競いたいらしい。

 と、言った感じでところどころで競う生徒たちがいるようだ。

 他には「一緒に走ろう」などと約束をする生徒も多い。

 生憎、彼方が七海につきっきりとなると、真にはそういう約束をするような人間はいない。

 少し寂しいが。

「はい、では位置についてー」

 その声に女子がスタートラインに集まり始める。

 号砲が鳴り響き、一斉にスタートする。

 男子は10分後。

 今一度体をほぐしておく。

「よー、真。お前、いつ来たんだ?」

「……開会式が始まる前だ」

 小声で彼方に言う。

 やはり間に合っていなかった事はばれていたようだ。

「それにしても朝から走ったようでご苦労さん。ほどほどにしとけよー」

「何だよ、えらく余裕じゃないか」

「まぁな。サッカー部で鍛えられてるからな」

 ぐぅの音も出ない。

 それに比べて真ときたら。

 走らない。

 帰ったらすぐご飯。

 とてもではないが、弓道部だけではまかないきれない。

「ま、お互い頑張ろーぜ!」

 流石余裕のある人間は違う。

 真は適当に手を振り、スタートの時を待っていた。

***

「それではー、位置についてー」

 集合がかけられ、スタートラインに並ぶ。

 こうしてスタートの瞬間が来るのは、マラソン大会だろうと競歩大会だろうと変わらず緊張するもの。

 号砲が鳴り響き、一斉に生徒たちが走り出す。

 女子の姿はもう見えていない。

 しかしながら、途中で歩いている生徒には合流するだろう。

 真は走るのは速い方でも、遅いほうでもない。

 そう走るのは。

 出だしこそ普通に走っていたが、スタートから3kmもしないところで歩き始めた。

 この競歩大会、諦めずにゴールする事が大切なのである。

 確かに走って、一分、一秒でも早く終わらせたいものではあるが。

 そこまで彼の体力が持つかどうかと聞かれると、微妙なところである。

 次々と後続の生徒に抜かれていく。

 普段ならば少しは悔しさがこみ上げるものなのだが、今日ばかりはそんな気分にもならない。

 スタートしてから8km。

 次第に町の景色が後ろへと流れて行き、山々に囲まれ始める。

 10月の山々の景色は紅葉が色づいており、なんとも見とれてしまう。

 少なくとも、何もなければ、の話である。

 今は競歩大会で、必死になって先に進んでいる。

 そんな時に紅葉など見ている余裕はないのだ。

 真は肩で息をして歩いていた。

 よもやここまで体力が落ちていたとは思わなかった。

 そして10km地点で、次々と引き返す生徒が見受けられる。

 部活の大会の近い生徒である。

 その生徒は10kmまでは参加し、その後は練習に参加するためその後の競歩大会は免除となっている。

 ちなみに真はまだ選手ではないので、免除はされない。

 羨ましそうに、引き返す生徒を見る。

 弓道部自体、10月の大会は無いので引き返すような事はないのだが。

 その中に、亜貴の姿を見つけた。

 バスケ部は今の季節こそが一番活動する時期なのだろう。

 亜貴が真に気付いた。

 軽く手を振り、励ましの言葉を送る。

 苦笑する真。

 そんな亜貴の声援を受け、迎えた12km地点。

 ちらほらと女子の姿が見え始める。

 こうしてみると、結構なスピードで自分が歩いていた事に気づく。

 いや、その女子たちが猛烈に手を抜いているだけなのかもしれないが。

 と、ふと見覚えのある人を見つける。

 涼子だった。

 友達だろうか、一人の生徒と話しながら歩いている。

 ずいぶんと余力を残しているようだが。

「でねー」

 気付かれないようにそっと横を通り抜けようとする。

 話に夢中で気付かれていないのだろう。

 このまま、すっと通り抜ければ。

「こんな感じで首根っこ引っこ抜いたのよ」

「ふぎゃ」

 思い切り襟をつかまれ、妙な奇声を上げる。

「あら、気付かなかった」

「またー、そうやって息をするように嘘をつくんですから……」

 そんな真の声はどこ吹く風、涼子は気にしていないようだ。

 真を掴まえ、涼子は暫く考え。

 一緒に走らないかと提案を持ちかけた。

 真にとっても、この提案は断る必要がない。

 何せ一人でゴールするのはつまらない。

「どうせ走る友達、いないんでしょ?」

「し、失礼な!? 俺にだっていますよ! ただ、皆先に約束してるだけです!!」

「ねぇ、それっていないって言うんじゃないかな」

「しー、みっちゃん、言っちゃダメよ、そういうこと。泣くわよ、彼」

 しかし否定したところで、一緒に最後まで走ろうぜという友達がいないのは事実。

 もっとも、途中で彼方辺りに合流できれば良いのだが。

 そうなった場合、七海のオマケ付きだが。

「ね、別に悪い話じゃないでしょうよ」

「むぅ……」

 断る理由がない以上、その提案は飲まなければならない。

 涼子と、その友達のみっちゃんと一緒に歩く事に。

 涼子曰く、この競歩大会は普通に歩いていてもゴールできるから心配ない、との事。

 やはり経験者が言うと違う。

 が、各チェックポイントに制限時間が設けられているが、 普通に歩いていればその制限時間に間に合わない、という事はない。

 あくまで目安なのだ。

「それにしても、塚原くんがこんな後ろにいるとはねぇ。もっと先に行ってるかと」

「……俺のほうも意外でした。てっきり沙耶先輩とか和日先輩とか杏里先輩とかと一緒にいるものだと」

「ああ、そっちで。沙耶はねぇ、もうとっくに先に走ってったわよ。かっちゃんは杏里ちゃんと一緒じゃないかしら」

 そうなんだ、と言った所で辺りを見回す。

 近くを通る女子の姿ばかり追っている。

「……行っておくけどひなちゃんは、私たちよりもずっと先よ?」

「ああ、やっぱり!!」

「何よ、私じゃ不満なのかしら」

 首を横に振る。

「まぁ分かるわよ。ひなちゃんの事好きだもんねぇ」

「好きって、そんな……」

 そのまま黙る。

 確かに好きではあるが、あくまで一方通行である。

 向こうが自分の事をどう思っているのかなんて、確かめることも出来ない。

「塚原くんくらいだったら、他にも一緒に走ってくれる女の子いるんじゃないの? あの眼鏡かけた子とか」

「眼鏡……」

 そう言われて真っ先に浮かんだのは遥だった。

 ただ、あんな事があった手前、誘いにくいのである。

「そんなに落ち込まないでよ……ねぇ」

「そうだよー、どこのどなたかは知らないけれどぉー、元気出してー」

 二人からの暖かい励ましに、ちょっとだけやる気を出した。

「と、言うわけで俺、もう先に行きますね」

「えー? 何をどうしたらそういう結論になるのよ」

 まるですぐにでもこの二人の下を去りたいような言い方に聞こえたのだろうか。

 ただ単にやる気が出てきただけ、という事を補足しておく。

 駆け足で二人を後ろに走り出す。

 残された涼子とみっちゃん。

 何か、思ってもいないアドバイスをしたようで、二人とも軽く笑うしかなかった。

***

 涼子たちと喋りながら歩いていたのが幸いしたのか、現在20km地点。

 残り15kmほど。

 とりあえずの折り返しを越えたところで、小腹が好き始めた。

 ちょうど良いところに空き地で生徒たちがそれぞれ持参した昼食を食べている。

 誰か知り合いはいないだろうかと探してみるが、生憎知っている顔はほとんどいない。

 少しはなれたところに、同じクラスの天道と加賀美がいる。

「天道ー、加賀美ー」

「……なんだ、塚原か」

「何だよ、お前、俺たちよりも後ろだったのか」

 加賀美はともかくとして、天道はもっと先に行っているものだと思っていた。

 とりあえず知っている生徒がいるだけでも安心した。

 真はその二人に相席をさせてもらい、昼食をとることに。

「良いよなぁ、天道は……料理ができて頭が良いなんてどんな完璧超人だよ」

「ふん、日々の鍛錬の賜物だ……それに、おばあちゃんが」

「それは良いって。塚原はどんな弁当なんだ?」

 加賀美が興味津々の様子で真のほうを見る。

 そう言えばどんな弁当か聞いていなかった。

 風華の事だ、意外とお弁当はまともに作ってあるかもしれない。

 渡された包みを開ける。

 瞬間、真の動きが止まる。

 加賀美も、いつもは何事にも動じない天道も流石に驚いている。

「な、何だこれェー!?」

 そこにあったのは直径7cmほどの巨大な黒い物体。

 丸々とした巨大な球体。

 すると包みの中にメモ用紙のようなものが挟まっている。

 そこには確かに風華の字でこう書いてあった。

『爆弾おにぎり、何が入っているかはお楽しみよ』

「爆弾おにぎり……これが噂の……!」

 何か得体の知れない威圧感を感じる。

 おそらくこんなにおにぎりに対して威圧感を感じたのは初めてだろう。

「おい、これ、中に何が入ってんだよ」

「し、知るかよ……作った本人に聞いてくれ」

 ともかく、食べてみない事には話は進まない。

 真は意を決して、その威圧感のあるおにぎりにかぶりついた。

「どうだ?」

「……ご飯の味しかしない」

「それだけの質量のおにぎりだ、当たり前だろう……」

 中に入っている具を探すため、無我夢中でおにぎりと格闘する。

 そして、真の口の中にご飯のそれとはまた別の味が広がった。

「何だった?」

「……から揚げ……?」

***

 もたれる胃。

 募る疲労感。

 ゴールまで残り5kmの地点で、真の歩みはゆっくりになっていた。

 爆弾おにぎりを平らげ、天道と加賀美と別れ。

 再び一人でゴールを目指す。

 現在14時23分。

 何とか3時までにはゴールしたいところ。

 大きな川に架けられた橋を渡り、信号で足止めを喰らい。

 喉が痛いのを感じながら、一歩ずつ歩く。

 この5kmさえ乗り越えれば、あとは寮に帰ってゆっくり休もう。

 午後14時40分。

 真は学校のグラウンドにたどり着いた。

 ゴールから少し離れたところに横になる。

 火照った体に、吹き抜ける風が心地よい。

 今日は帰って、何もしたくない。

 明日はどうせ、一限目が休みなのだ。

 ゆっくりと寝よう。

 立ち上がり、体についた砂を払った時。

 誰かが真に声をかけてきた。

 ひなただった。

「ひなた、先輩……? ああ、やっぱり先にゴールしてたんですか」

「ええ、2時くらいに」

 40分も速くゴールしていた彼女。

 自分のクラスで他の生徒と話をしていたとか。

「でも、もう寮に帰ろうと思って」

「? もうちょっと話していても良いんじゃないですか? 部活、今日休みですから」

「いえ、そう言うわけではなくて……」

 ひなたは今日、これから寮に帰って風華の手伝いをしようと思っていたのだ。

 さくら寮の管理人だが、平日から風華に任せきりなので平日でも早く帰れる今日くらいは。

「それでも休日になればひなた先輩が」

 そういったところで午前は部活で丸々潰れている。

 こうして考えると、確かに風華に任せきりになっていることに改めて気付く。

「そう言う事でしたら、手伝いましょうか」

「でも、疲れてるんじゃないですか?」

「確かに疲れてますけど、それはひなた先輩だって同じでしょう? 二人でやれば、早く終わりますよ」

 深呼吸をして、呼吸を整える。

 真に言われて、ひなたの口元は緩んでいた。

「じゃあ……頼りにしてますね」

 そうして二人は寮へと帰っていった。

 ちなみに翌日、筋肉痛になっていたのは言うまでもないことである。


(第七十五話  完)


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