第六十三話  遥、行動する、真、困惑する

 落ち着いて考えてみるんだ。

 そう、真が頭の中で発したのは9月11日、金曜日の放課後の事。

 夕日の差し込む教室で、真は倒れていた。

 そして目の前には、眼鏡をかけた少女。

 その眼鏡の奥で、大きな瞳がじっと真を見ている。

 何が起きた。

 それすらも分からない。

 一瞬の事だった。

 落ち着いて考えるんだ。

 目の前にいるのは誰だ。

 目の前にいるのは有馬、遥。

 何故彼女が馬乗りになっている。

 分からない。

 何故自分は押し倒されたのだ。

 分からない。

 分からないことだらけだ。

 あまりにも事態を把握するには情報が少なすぎる。

(むぅ……こんなところ誰かに見られたら……)

***

 そもそも、朝から何かが変だったのだ。

 学校に、教室に到着した時。

「お、おはよ、塚原くん」

「む?」

 遥に声をかけられる。

 真はどこか遥の様子が変だということにその場ですぐに気がついた。

 何と言うか、見る目が熱っぽい。

「きょ、今日も良い天気だね」

 まるで風華みたいな事を口にする。

 実際、起きてきた時に風華に言われたのだが。

 遥が去ったあと、そばにいた彼方が耳打ちをする。

「何か、変じゃね? 遥」

「う、確かに……」

「なんつーか」

「……こう……」

 口にはしない。

 言いたいことは分かるのだが、言ってしまうと遥に悪い。

 彼女の変化は、七海も、席が近くの夕菜も何となく気付いていた。

 だが、あえて彼女たちはその事を遥には聞かない。

 何故か。

 女同士の空気の読みあいなのだ。

 何でそんなに上機嫌なのか、などと軽々しく聞けば軽い女と思われてしまう。

 元来より女は人の変化には特に敏感で。

 しかもそれが他人の知らないことだと余計に第六感が働くものだ。

 夕菜は夕菜で周りの女子とあらぬ噂をし始める始末。

 余計に性質が悪い。

「ねぇねぇ、何だと思う? アレ」

「男と見た」

「しかもいいんちょと話したときのあの熱っぽさ」

「ついに一線を越えたのかしら」

「もう、そこまで!?」

 もはや誰にも止められない。

***

 それこそ授業中は気にならなかったが、休み時間になると視線を感じるようになった。

 何故か一日中見られているような。

「……何だろうなー、この感覚」

「どうした?」

 真が小声で彼方に言う。

「今朝から有馬さんにすっごい見られてる気がする」

「ま、人って人生のうちに三度モテ期があるって言うしな。そのうちの一回目じゃないか?」

「だと良いんだけどなぁ……」

 ちら、と遥を見る。

 目が合うと下を向いて、もじもじとしている。

 頬も微妙に紅潮している。

 これは、誰が見ても分かる。

 彼方が方に手を回す。

「確定だな。前々から怪しいとは思っていたが、完璧に遥はお前の事を気になってるみたいだ」

「そんな!」

 思わず大声。

 皆の視線が真に集まる。

 立ち上がった拍子に倒れた椅子を元に戻す。

 再び小声で話し始める。

「向こうはお前に熱があるみたいだけど、お前はどうなんだよ?」

「俺は……」

 正直、今まで意識した事も無い。

 ただ単に、気の良いクラスメイトと思っていた。

 話しやすくて、自分よりもよっぽど委員長っぽい遥。

 でも、好意と言う気持ちを抱いた事はなかった。

 けれども、相手が自分に好意を抱いていると知って、自分はどうすれば良い?

「何が最良の手、なんて恋愛には無いしなぁ……。それこそゲームじゃあるまいし」

「うぐ」

「もしかしたら傷つくかもしれないって、思っているものが功を奏すかもしれないしなぁ」

 彼方にしてはまともな意見。

 思わず真も唸ってしまう。

 さすがに彼女持ちは違う。

「七海ー、七海ー」

 彼方が七海を呼ぶと、すぐに飛んできた。

 とりあえず今までの事を七海に相談する彼方。

 女の気持ちは女にしか分からない、そう言う事だ。

「なるほど、事態は把握しましたわ」

「頼もしいなぁ……」

「下僕一号、すぐにその気持ちにお答えなさい!」

「な、なんだってー!?」

 立ち上がる真。

 またも視線が集まる。

 あまりにも総計過ぎる七海の意見。

 期待していたのはそんな答えじゃない。

 もっと自分をお後押しするような。

 そんな答えを期待していたのに。

「そもそも、貴方のような朴念仁では、彼女を満足する事は不可能ですわ!」

 びしっと、指を突き立てられ。

「ここは一度、男らしく答えるのが先決! それから悩みなさい」

「つまるところ、後先考えるなってことかよ、七海」

「そういうことですわ、彼方様。恋なんてものは動いた物勝ち、うだうだしていてもダメですわー!」

 何時になく張り切っているのが逆に怖いくらいで。

 しかし考えてみると、七海の言う事はもっともかもしれない。

 恋に鈍感と言うわけではないが、いまいち人の気持ちを汲み取るのが苦手な真にとって、行動あるのみと言うのは実に単純明快。

 その先に、泣きたくなるような事態が待っていたとしても、まずは動いて見ないと事態は収束しない。

 このまま真が動かずに遥が動くのを待つのも一つの手と思っていたが、自分が動いた方が遥も後押しされて動くかもしれない。

 そう言うことである。

 だが、それにしても決意と言うものがいる。

 今ここで、七海に言われたから仕掛ける。

 そんな度胸が、真にあるわけではない。

「でも、お前が動かなきゃ、たぶん遥も動かないぜ?」

「それは分かるけど……」

 真は迷っていた。

「ま、俺たちがどうこう言っても最終的に決めるのはお前だしなぁ。七海、見守るか」

「ですわ」

「くそぅ……」

 結局、アドバイスは貰ったものの、根本的な解決にはならなかった。

***

 真が彼方と七海からアドバイスを受けている時。

 遥はずっと真を見ていた。

「何を話してるんだろう……」

 行ってみたいけど、勇気が無い。

 何時もどおり振舞えば良いのに、何故か何時もどおりに振舞えない。

 そんなジレンマ。

 遥はひたすらに悶えていた。

 どうすれば良いのか分からず。

「うぅ……」

 終いにはウズウズし始めた。

「遥ー、ちょっとちょっとー」

 夕菜に呼ばれる。

 立ち上がり、夕菜の下へ。

 にやにやと笑っている夕菜たち。

 対して若干不安そうな遥。

 実に良い対比となっている。

「ま、多くは聞かないけどさー。言ったほうが良いと思うよー?」

「はぇ!?」

 素っ頓狂な声を上げる遥に、夕菜達は言ってみせる。

「てゆーか、いいんちょも典型的な朴念仁っぽいし。ここらで一発、言っておいた方が良いと思うよ?」

「あの、話が見えないんだけどぉ……」

「話が見えない? またまたぁ」

 わざとらしく言ってみせ、遥の反応を伺う。

 やはりそれっぽいことを言うと俯いてもじもじとする。

「後押ししてあげるよぉ?」

「そんな……後押しだなんて」

「いざとなったらまた相談しなよー? 女同士なんだしさ」

「うぅ、何か良いように言いくるめられてる気がするぅ……」

「気にしない気にしない」

 遥も人が良い。

 普通ならばここらで否定するのだが。

 否定しないのは肯定の証。

 大丈夫だとか、心配ないと言われるが。

 やはり遥の心のうちは不安で一杯だった。

***

 その後、授業をこなして昼休み。

 あいにく今日は風華が弁当を持たせた。

 真は彼方達とは食堂に行かず、教室で弁当を食べていた。

 そこへ、やはりと言うか何と言うか。

 遥が声をかけてきた。

「つ、塚原くん」

 急に声をかけられたので、咽てしまう。

 彼女の手にはパンが。

 一緒に食べようと言うのだろうか。

「い、いっちょに」

 噛んだ。

「い、一緒にね、その……」

 遠目で夕菜たちが見てる。

 それも気にせず。

「勉強しない?」

 そう言うわけで、弁当を食べながら勉強をする事に。

 何で、何が悲しくて弁当を食べている時に勉強をしなければならないのか。

「今日は宿題が多いから、早めに済ませておくと楽だよ」

 そういう遥がパンを食べる。

 確かに今日はやたらと宿題が多い。

 中間テストが2週間後にあるからだろうか。

 そのどれもが問題集。

 苦痛で苦痛でたまらない。

 苦手な地理なんか拷問の類ではないかと疑ってしまう。

「ひー、ふーねぇたすけてぇー」

「あ、ここ違うよ?」

 真の間違った答えを正そうと、遥が覗き込む。

 ふわりと、良い匂いが香る。

 そのまま少し呆けてしまった。

「だ、大丈夫?」

「あ、うん……。ちょっと考え事」

「そう?」

 短いやり取りが交わされる。

 昼休みの殆どを宿題につぎ込み、見事に半分まで終わらせる事ができた。

 これならば明日、明後日で宿題を終わらせる。

 いや、もしかしたら今日の夜に終わらせる事だって出来る。

 遥には礼を言わないと。

「有馬さん、ありがとう。助かったよ」

「ひゃ、そ、そんな……助かっただなんて……」

 ぶんぶんと手を振るう。

 見ていて面白いくらい慌てて取り乱している。

 目標の宿題分が終わったので、真は背伸びをする。

 これで後は楽が出来ると、彼は思った。

 遥も、真の役に立てて心成しか嬉しそうで。

「じゃ、じゃあ私ちょっと用があるから」

 昼休みに用とはまた珍しい。

 席を立つ遥。

 一人になった真に、声をかける人が一人。

 夕菜。

「あららーん、見てたわよー、いいんちょ」

「くぎ……」

「皆まで言わなくても、頭からつま先まで見てたからー」

 不敵な笑みを浮かべ、女子特有の喋りで真を圧倒する。

 ああでもない、こうでもないと囃し立て。

 真はますます困惑する。

 結局、夕菜が何を言いたいのか理解している間に、彼女はとっとと去った。

 何だったのか、本当に。

 本当の「問題」と言うのは、ここから起きるのであるが。

***

 授業が全て終わった。

 部活へ向かう者、帰る者。

 喧騒に包まれる教室の中、真は鞄に教科書を入れていた。

 今日から射場での練習となる。

 三年生が引退し、新しく二年生中心の部活になる。

 真はまだだが、いずれ一年でもレギュラーになる人間が出てくるだろう。

 自分も足を引っ張らないように、気を引き締めたいところではある。

 遥も同じ頃、すでに音楽室にいた。

 自分の扱う楽器の手入れをして、今日の練習に備えている。

 しかし、その彼女の口からは常にため息。

 昼休みの事を思い出していたのだ。

 少しだけ勇気を出して、真のところへ向かったのに、何も出来なかった。

 本当に宿題をして、それで終わってしまった。

 あんなチャンス、二度とない。

「はぁ……」

「ありまちゃーん、元気ないよぉー?」

「佐夜、ちゃん? ううん、別に、いつもどーりだよ」

 嘘。

 そんな虚ろな目で言われても、説得力が無い。

 佐夜も女の子だ。

 大体遥に何があったかくらいは容易に想像できる。

 ただ、その危なっかしいくらいにぼうっとした遥が心配なだけで。

「大丈夫、本当に? 何だか顔も赤いけど」

「あ、うん、本当に大丈夫だから」

「その辺にしとけ、佐夜」

 貴人の声で、佐夜が行動を止める。

 彼は言う。

 あまり元気の無い人間に、きゃあきゃあと声をかけるものではないと。

 元気が無いというよりも、思考が上手く働かないと言うか。

 ともかく、頭の中が常にもやもやとしているのだ。

「辛かったら帰ったほうが良いかもしれないさ、有馬さん。幸い、今日は顧問の矢部も休みだし」

「でも……」

「集中できない頭のまま、練習しても効率が悪い」

 どこか苛としているのか。

 いや、ただ無愛想なだけか。

 それでも貴人の言う事は正論だった。

 頭の働かない状態で部活に出ても、練習をしても、身にはならない。

 ただただ、時間を無駄に過ごすだけ。

 それならばいっその事休んで、次からの練習に備えた方が良い。

 遥もそのことは分かっていた。
 
 でも。

 今更帰ったところで、何をすれば良い?

 こんなにも頭の中が混乱し、靄がかかった状態で何が出来る。

 せめて部活に出て、気を紛らわそうとしていた。

 その事は、射場にいた真も同じだった。

 朝からの事を思い出すたびに、頭の中が混乱する。

 遥が自分に好意を抱いている?
 
 何故自分はそれを素直に受けとめないのか。

 心の中で、彼女を拒否しているのか。

 いいや、違う。

 そんな事は無いのに。

「あの、塚原さん?」

「はい?」

 ひなたに声をかけられる。

 あまりにもぼうっとしすぎている。

 ひなたは真をじっと見ている。

「具合でも悪いのでしょうか。先ほどからぼうっとしっぱなしでしたが……」

 不安そうに見るひなたに、心が痛む。

 こうして周りにも心配させてしまっている。

 どうしようもない。

 自分は。

「いや、具合はすこぶる良いんですが……。ちょっと精神的にですね」

「はぁ……。弓道はメンタルが物を言いますから、あまり無茶はしないでくださいね。約束です」

 約束。

 その言葉がまた痛々しい。

 しかしながら、その後も真の様子が治る気配はなく。

 ついには部長に呼び出されてしまった。

「塚原、お前だけだぞ、練習に身が入ってないの」

「すいません……」

 不甲斐なかった。

 情けなかった、泣きたかった。

 色々な事を考えすぎて、考えすぎて。

 押しつぶされそうだった。

「射場での練習で、不安かもしれないけど、お前だけじゃないんだぞ?」

「……はい」

「……桜井からお前の事はよく聞いている。こう、時々お前は考え込んでしまう癖があるようだな」

 他人からも分かるくらいなのか。

「すいません……」

 ただ謝るしかできない。

 部長だって、こんな事に時間を割きたくは無いだろう。

 ただ、部員のメンタルを良い方で保つのも部長の役割なのだ。

 部員一人が悩んでいるのなら、それを解決しなければならない。

「今日は、もう帰れ」

「そんな……ッ! 俺は」

「そんな呆けた頭のまま射場にいられても、こっちが気が気じゃないんだ……!」

 やや苛立った声で言う。

 その低い声に、真は圧倒された。

 堪らなくなり真は、更衣室にもぐり着替える。

 部長に言われて帰るんだ。

 そう言い聞かせるが、悔しくて、情けなくてたまらない。

 射場を出るとき、頭を下げる。

 足早に射場を後にする。

 ふと、真は立ち止まる。

 忘れ物が無いかチェックしていなかった。

 忘れ物をして、戻るのも勇気がいる。

 その場にしゃがんで鞄をあさる。

 筆箱、ノートに教科書。

 それらを出して中を確認する。

 そして射場に忘れ物が無いことを確認した時、急激に記憶が蘇る。

 昼休みに進めた問題集が無い。

 半分進めたと、気が楽になって机の中に入れっぱなしだった。

 慌てて教室に戻る。

 同時刻の事。

 遥は、練習を続けていた。

 顧問がいないと言う事で、帰る生徒が少しずつ出始める。

 日も暮れてきた。

 何だか頭も働かない。

 この辺りで切り上げて帰るのが良いかもしれない。

 遥はそう考え、楽器の手入れを行い、ロッカーに戻した。

「お疲れ様でした」

 そう言って音楽室を後にする。

 音楽室は三階の一番西側の教室。

 下駄箱に向かうには、自分たちの教室のある廊下を通らなければならない。

 遥が音楽室を出て、数秒。

 教室に入る人影を目撃した。

「……?」

 早足で教室の前に向かい、中を伺う。

 夕日の差し込む教室に動く人影。

 真だった。

 自分の机をごそごそとしている。

 真だと理解すると、思わず遥は隠れた。

 これは。

 教室には真しかいない。

 辺りに生徒の気配はない。

 深呼吸をする。

 決意を、固め。

 教室の扉を開ける。

***

 教室の扉が開いた。

 別段悪いことはしていないのに、心拍数が急激に増えた。

 開いたのは、後ろの扉。

 真はそこに立つ人を凝視する。

「あ、有馬さん……! びっくりした……」

「ご、ごめんね、驚かすつもりは無かったの。ただ、こんな時間に教室に誰か入っていくのが見えたから……」

 距離は離れているが、向き合う真と遥。

 そのまま沈黙が続く。

 何を話せば良いのだろう。

 互いに悩んでいる。

 とりあえず遥も、何か忘れ物をしていないかチェックする。

 机の中は空。

 あまり教科書の類を置いたりする人間ではない。

「ね、ねぇ、塚原くん」

「じゃあ俺は帰るかな」

 ほぼ同時だった。

 何も言っていない。

 伝えていない。

 慌てて遥は真の側に駆け寄る。

 机と机の狭い間隔の中を、慌てて駆けて来る遥。

 瞬間、彼女の体の重心がずれる。

 体勢が前のめりになる。

 とっさに彼女の両手が真を掴み、そのまま。

「……つ……いたっ……!」

「う、……だいじょ」

 うぶ、と続けたかったが。

 今の体勢を見て、遥の頭の中が瞬間的に真っ白になった。

 仰向けになっている真。

 ちょうど腹部に座り込んでいる遥。

 この状況は、誰がどう見ても。

 落ち着いて考えてみるんだ、真。

 頭の中で発したのは9月11日、金曜日の放課後の事。

 夕日の差し込む教室で、真は倒れていた。

 そして目の前には、眼鏡をかけた少女。

 その眼鏡の奥で、大きな瞳がじっと真を見ている。

 何が起きた。

 遥が走ってきて、倒れそうになって自分の方を掴んで。

 一瞬の事だった。

 落ち着いて考えるんだ。

 目の前にいるのは誰だ。

 目の前にいるのは有馬、遥。

 何故彼女が馬乗りになっている。

 倒れたから。

 何故自分は押し倒されたのだ。

 彼女の手が自分の肩を掴んでいたから。

 ようやく彼は、全てを飲み込んだ。

***

 18:00。

 ひなたが寮に帰ってきた。

 出迎えたのは風華。

 ひなたは、気になっていたことを風華に告げる。

「あの、塚原さんは……?」

「あれ? ひなたちゃんと一緒じゃないの? まだ帰ってないのよぉ〜」

「そんなはずは……だって、部活を途中で切り上げたんですよ?」

 どこへ行ったのか一気に心配になるひなた。
 
 弟思いの風華も、それを聞いて心配になる。

 一緒に探しに出かけようとした時。

 寮の扉が開いた。

 真がそこに立っていた。

 肩が微かに震えて、口からは嗚咽が漏れている。

「しんちゃ」

「ごめん、後にして……」

 それだけ言うと、真は二階へと上がり。

 自分の部屋にこもる。

 電気はつけず、空に現れ始めた月光だけが、部屋の中に。

 最低だ、俺は。

 自分を貶す。

 あの言葉を聞いて、自分は何と返した?

 その瞬間、彼女はどんな顔をしていた。

「……くっ、うぁ……ッ!」

 涙で枕が濡れる。

 漫画などである比喩的表現ではない。

 彼は号泣していた。

 初めてだった、こんな気持ちは。

 そして、初めてだった。

 こんなにも後悔したのは。

 薄暗い部屋の中、真は一人で泣き。

 一人で後悔していた。

 朝方、彼方はこう言っていた。

 何が最良の手、なんて恋愛には無いしな。

 そう、最良の手なんて無いのだ。
 
 あるのは妥当な答えか。

 あるいは、最悪の答え。

 自分は、最悪の答えを突きつけたのかもしれない。

 それは、塚原真、15歳のときの事だった。


(第六十三話  完)


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