第六十一話 Lost Memory

 9月4日、金曜日。

 放課後、語学研究部。

 名前の通り、世界中の語学を研究する部活。

 ここ杏里は所属している。

 最初は、おどおどとしていたが「ある日」を境にそれも無くなり。

 今では普通に部員生活を送っている。

「今日はエジプト王朝で主流だったアラビア語についての研究です」

 顧問の先生の説明が始まる。

 研究部というよりは、若干課外授業に近い内容だった。

 アラビア語が使われている地域。

 アラビア語で使用されている文字など。

 普段中々知りえないような情報を知ることが出来る。

 それが語学研究部の特徴。

 しかしながら如何せん地味すぎるために部員の数は少なく。

 杏里を含めて三人。

 しかもそのうち二人は三年生。

 もしその2人が卒業したら、残るのは杏里一人となる。

「でも神奈さんなら安心して部を任せられるわ」

「ちょっと大人しいのが心配だけど、大丈夫よね?」

「……うん」

 そんな話が起こる。

 話を途中で遮ってしまったが、すぐに顧問の話に集中する。

 非常に興味の無い人間にとっては眠くなるような内容である。

 しかし、色々なものを知りたがりな杏里には別にどうという事はなかった。

 むしろ世界中のあらゆる言語について、旅行などしなくても手軽に知る事が出来るのだ。

 それは素晴らしい事。

 それは凄い事なのだ。

 比較的他の部活に比べて、活動時間も短い。

 楽しい部活なのだ、杏里にとって。

「はい、じゃあ今日はここまで。あー、気をつけて帰れよぉー」

 机を片付けて、鞄を手に。

 杏里は教室を出た。

「部長、副部長、さようなら」

「はーい」

 昇降口で上履きを脱いで、靴を履く。

 今日も一人で帰る。

 寂しくは無い。

 いつもこうしていたから。

 今日も夕日が綺麗。

 昇降口から正門へ向かう。

 生徒何人かとすれ違うが見知った顔はいない。

「……あ」

 ふと、杏里の足元に黒いネコが寄ってきた。

 人懐っこい。

 しゃがんで、猫の顎を撫でてやる。

 気持ち良さそうに身を寄せてくる。

 その様子に杏里もほんのりと笑みを浮かべる。

「あ、いたいた」

 ふと、聞こえるはずの無い場所から声が聞こえた。

 それは正門近くの石造から。

「?」

「私だよ」

 顔を出したのは半透明の体の少女。

 幽霊さんだった。

 どうやらレンに続いて彼女が連れてきた猫。

 杏里はそう考えていた。

 が、話を聞くにどうやら少し前から寮に出入りをしている猫らしい。

「……大変じゃない?」

「何がです」

「ネコ」

 多分ネコの面倒といいたいのだろう。

 幽霊さんは特にそういったものを感じてはいなかった。

 むしろ楽しいくらいで。

 もともと動物が好きだったのかもしれない。

 そのままそこで数分話をしていたが。

 どうにも涼しい風が吹き始めた。

「……幽霊さん」

「はい?」

「帰ろ」

***

「ただいま」

「ただいまー」

 幽霊さんと一緒に杏里が帰ってくる。

 寮の中は相変わらず風華と。

「ふが」

 リビングで眠っている涼子。

 その二人だけだった。

 明日は土曜日。

 遊ぶ話でもしているのか、それともまだ部活か。

「お帰りー。寒くなかった?」

「うん、へーき」

 着替えるために二階へ上がる。

 手早く着る物を決めて下に降りると、既に風華、涼子、幽霊さんの3人はテレビにかじりついていた。

 今の時間だと夕方のニュースの時間。

 それを見ているのだろう。

「えー、ここで砂糖を入れるわけですが。この時砂糖はあまり多くいれずに」

「うーむ、そうなんだぁ……」

 料理番組だったりする。

 その若干騒々しい料理番組を横目に、杏里は冷蔵庫からサイダーを取り出した。

 それをコップに注いで飲んでいく。

 炭酸の爽快な喉越しが好きだった。

「……けぷ」

 さて、夕飯まで時間はまだまだかかりそうだ。

 何をしようか迷っていた時。

 不意に風華が声をかけてきた。

「ねぇー、杏里ちゃーん」

「……なに、ふーかせんせー」

「前から気になってたんだけどぉ」

 風華の口から出た言葉。

 それに杏里は揺らいだ。

「どうして杏里ちゃんは私の子とふーかせんせーって呼ぶの?」

***

 夜。

 杏里は一人で悩んでいた。

 何であの時風華はあんなことを言ったのだろう。

 今まで気兼ねなく「先生」と言っていたのに。

 これではもう呼びにくくなる。

 少し前に、真がこんな事を言っていた。

『人の脳みそって少し前の記憶を忘れるようになってるからなぁ。多分、記憶が戻ったから施設で働いていたときのことなんて忘れるんじゃないですか?』

 しかし風華はそれでも覚えていた。

 覚えていたのだが。

 少しずつ、少しずつその施設で働いていた事を忘れているようだ。

 それはつまり。

 杏里と一緒にいたということも忘れてしまうのだ。

 もし、そのときの記憶が全て無くなったら、寮で出会ってからの杏里しか知らないことになる。

 どうしたら良いのだろう。

 こういう時、相談するのは。

「あー、あー……」

 ぼけっとしている真。

 宿題がさっぱり進まないのだ。

 次の授業は週明けの月曜日なので、土日のうちに終わらせれば良いのだが。

 ごろごろとする。

 家から持ってきた漫画も殆ど読んでしまった。

 かといってPS2は無い。

 暇で暇で仕方がない。

 その暇を打ち消すように、真の部屋の扉が叩かれる。

 どうせ風華だろうと考えていた真は、のっそりと動き出し。

「はーあーいー」

 扉を開ける。

 何かにぶつかった。

 そこにはうずくまる杏里。

 額を押さえている。

「あ、杏里先輩ッ!? ごめんなさい!」

「……大丈夫。ねぇ、話があるの」

 真の部屋に入り、座る杏里。

 いつも無表情な杏里だが、今日はどこか不安そうな顔をしている。

「どうしたんですか、珍しい」

「その、ふーかせんせーのこと」

 杏里は夕方のことを話した。

 そのうちに秘めた寂しさも。

 全て、真に伝えた。

 母が死に、父親から虐待を受けていた杏里にとって風華は両親にも匹敵する存在と言っても過言ではない。

 だからこそ、辛いのだ。

 施設で一緒だったという事を忘れられてしまうのが。

 話をしていくうちに杏里の瞳からは一筋の涙が流れ始めた。

 嗚咽こそこぼしていないものの、本人は辛く、苦しそうで。

 まるで倒壊寸前のダムのように。

 少し突いただけで泣き出してしまいそうな、限界状態。

「その……なんつーか、ふーねぇも悪気が無いし……。でも余計にそれが質が悪いか……」

「私、やだもん……」

 口を開いた杏里から既に嗚咽にも似た声。

「ふーか、せんせ、が……わすれちゃうの、やだもん……!」

「杏里先輩……」

 どうしてやる事もできない。

 真には、人の記憶の消滅を防ぐ事なんで出来やしない。

 そこで真が少ない脳みそを振る活動させて考え付いたのが。

「明日、ふーねぇと出かけてきたらどうです?」

「……え?」

「出かけて、作れば良いじゃないですか。消えてく記憶よりも、もっと楽しい思い出。もちろん、一日や二日で作れるものじゃないですけど」

 それでも、辛いのが少しでも紛わすことが出来るのなら。

「ふーねぇには話をつけてきますよ。どうです?」

「……私」

 ここはきちんと決めないと。

 いつも大人しいからといって、他の人間に頼っていたが。

 杏里の、目つきが変わる。

「明日、出かけてくる」

「分かりました。じゃあ話ときますね」

 真が立ち上がる。 

 同時に杏里も。

 二人で部屋から出た時に、杏里が真の袖を引っ張った。

 思わず転びそうになるが。

「……いつもありがとうね」

「いえいえ」

「それと、私が伝えてくる……」

 相談しただけでなく、出かけようという事も伝えてもらったら。

 何時までも同じまま。

 変わらないまま。

 杏里は決意していた。

 自分で伝えると。

「私がふーかせんせーに伝えてくるよ。……その、塚原くんにばっか、頼ってるから」

 リズムよく階段を降りていく。

 なんだか、意識しないうちに杏里の中の蟠りを壊していたようだ。

 ともかく、これで一安心。

 真は部屋に戻る事に。

「ニヤニヤ」

「!?」

 そこには上からニヤニヤしてみている涼子と和日。

 見られた。

 見られていたのだ。

「あーん、もう、隅に置けないわねぇ! ねぇ、かっちゃん?」

「そーですよねぇ。見てるこっちがニヤニヤしっぱなしですよ」

「い、何時ごろから……」

 結構前からと、二人揃って言う。

 ニヤニヤしながらあれやこれやと言ってくるが。

「良いですか」

「何が?」

「これ以上何かしたら怒りますからね」

 目つきが怖い。

 今回ばかりは、冗談など言ってもらいたくない。

 杏里の真剣な気持ちを真が汲み取っていた。

 その結果の言葉。

 いつもとは全く違う雰囲気に涼子たちも思わず黙る。

***

 土曜日。
 
 風華と杏里が並んで玄関に立つ。

「それじゃあ行って来るねぇ」

「きーつけてね」

「……行って来る」

「楽しんできてくださいね、杏里ちゃん」

 風華と杏里が寮を出た。

 正直、今日の部活が休みで助かった。

 風華がいないとなると、皆で協力して家事をしなければならない。

 真は風呂掃除と二階の掃除。

 ひなたは一回の掃除。

 涼子はリビングの整理に和日はその手伝い。

 亜貴はゴミ出し、沙耶は窓拭き。

 いつも風華はそれだけの事をしているのだ。

 真から見れば、とてもそうは思えない。

 気がつけば横になってテレビ、せんべい、テレビ。

 ごろごろしている。
 
 果たして、何時掃除をしているのだろう。

 不思議でならない。

 そんなどうでも良い懸念は置いておいて、真は二階へと登っていく。

***

 商店街は今日も賑わっていた。

 休みと言う事もあり、小学生や中学生が商店街を走り回っている。

 子供連れや家族連れの大人も多い。

 風華に手を引かれて歩く杏里。

 こうして一緒に歩く事自体が久しい。

「杏里ちゃん、何か欲しいものある?」

「……欲しい、もの?」

「服とかー……お菓子とか! 何でも買ったげる」

「ほんとに?」

 えらく気前が良い。

 これでDVDレコーダーとか言ったらどうするつもりなのだろう。

 そうなったらそうなったで慌てふためく風華の姿が容易に想像できる。

 しかし今の杏里に欲しいものと言うのは特に存在していない。

 洋服も特にこれが欲しいと言うものも無い。

 亜貴ならばプラモが欲しいとかいいそうだが、杏里にはそう言った固定の趣味と言うものは無い。

「さ、言ってごらんなさいな」

「特に無いかも」

「……ほんとに?」

 何故か悲しそうな表情をする。

 杏里が慌ててフォローをする。

「だ、だってふーかせんせーに何か買ってもらおうと思って出かけようって言ったんじゃないもん……」

「杏里ちゃん……」

「……それに、今日出かけようって言ったの思い出作りだもん」

 立ち止まる杏里。

 風華が完全に施設での事を忘れても。

 今日、そして明日からの事を覚えてくれれば。

 もちろん施設での事を忘れられるのは寂しい。

 杏里にとって施設で風華と過ごしていた事は、数少ない楽しい思い出だったのだ。

「その、前々から言ってる施設云々ってことがもはや私はぼんやりとしか覚えてないんだけど……」

 風華ももはや何のことだか分かっていないほどに。

 記憶が薄れてきている。

「杏里ちゃんにとって、それは楽しい思い出だったんでしょ?」

「うん」

「じゃあ大丈夫だよ」

 相違って杏里ちゃんを抱き上げる。

 そして頬ずり。

「ん……っ」

「大丈夫大丈夫」

 何の根拠も無い発言だが。

 根拠の無い発言であるから、風華の発言は安心できる。

 逆に根拠があると安心できない。

 何故だろう。

 それが風華の人柄と言う事なのだ。

 彼女ほど適当で緩く生きていると、気の抜けた発言ほど人の心を落ち着かせることが出来る。

「さ、どこに行こうか? ショッピングセンター? 喫茶店?」

「えと……ショッピングセンター」

 そこに行けば、時間を潰すのは容易。

 そして、思い出を作るのも。

「さ、行こうよ!」

***

 二人で洋服を見たり。

 本を立ち読みしたり、試食をしたり。

 買い物は、まったりと。

 のんびりと続いていた。

 そして一休みしようと、喫茶店に入る。

 風華はオレンジジュース、杏里も同じものを頼んだ。
 
 ジュースなのですぐに運ばれてくる。

 甘酸っぱいふみが口に広がる。

「そういえば杏里ちゃんは勉強どうなの?」

 まるで久しぶりに会った親戚のように、どうでも良い事を聞いてくる。

 杏里は少し戸惑ったが、「普通」と答えた。

「そう? 分からない事あったら聞いてね。何でも答えちゃうから」

「……難しいよ?」

「大丈夫よ。ぱっと閃くもの」

 それで問題が解けたら苦労はしない。

 しかし真に教えている姿を見ると、どうにも風華は頭が良いらしいから、彼女が言う事にも説得力があるというか。

 風華曰く、数学はある程度意の事を覚えてその応用だという。

 何かが違う気がするが。

「でも、大丈夫。頑張って頑張って……それで分からなかったら聞くから」

「えらいえらい。真ちゃんなんか宿題がでたらすぐに手伝ってーって……ほんとにもう」

 普段の行動を見るにお互い様だろう。

 杏里はつくづくこの兄弟の不思議な仲の良さに小首を傾げた。

***

 楽しい外出の時間は終わり。

 昼ごはんの買い物。

 そうは言っても、何にするか。

「寮の皆に聞いてもバラバラだし……」

「……カレーの時とか酷かったよね」

 多分帰ってからでは恐ろしく時間がかかるだろう。

 そうなると。

「杏里ちゃん決めてよ」

「私が?」

 急に振られて杏里は困った。

 何か食べたいもの。

 それを必死に考える。

「……」

「決まった?」

 ニコニコしながら杏里を見る。

 その笑顔が眩しい。

「……ハンバーグ」

「はい、決定ー。文句を言う人はオシオキよー」

 立ち上がり、ハンバーグの材料を買いあさる。

 こうして、一時の外出の時間は過ぎていった。

 ちなみに、この2日、裏では大きなことが動いていたのは知る由もない。


(第六十一話  完)


 
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