第五十九話  朝ごはんの大切さ

 8月27日、木曜日。

 夕方3時45分。

 夏は過ぎつつあるとはいえ、まだまだ暑い日が続くこのごろ。

 その日、風華はスーパーマルハチに買い物に来ていた。

 今日の夕飯はハヤシライスにサラダ。

 それが良いと彼女は決めたのだ。

「人参ー。じゃーがーいーもー.。にくーにくー」

 それはカレーの材料。

 いや、本当は人それぞれなのだが。

「ハヤシライスのもと……うん、これで全部だね」

 買うものも買った。

 レジに並ぼうと歩いた時だった。

 ゆったりとした音楽が店内に鳴り響く。

「スーパーマルハチが、午後4時をお知らせします」

 ちょうど1時間ごとに鳴っている時報のようなアナウンス。

 するとどうだろう。

 先ほどまで何もなかった通路に、銀色のワゴンが運ばれてくる。

 その中には品物がぎっしりと詰め込まれている。

 そして近くに立てられた幟には「夕市」の2文字。

 スーパーマルハチの恒例夕市である。

 この時間になると店内に並べられている品物のうち、従業員が選りすぐった品物が特売価格での販売となる。

 ―――――――と言うのは表向きの話で。

 実のところ在庫を抱えている商品と言うものが選ばれやすい。

 特売だからといっていつもよりも多く仕入れた商品が余ってしまった。

 ならばそれを翌日の夕市で安くして売ろうという考えがあるのだ。

 しかしながら安い商品は本当に安くなるもので。

 例えば水産コーナーで1パック780円の「刺身の4点盛り」と言う商品がある。

 これが夕市だと「580円」ほどにまで値段が下がる。

 このように、スーパーマルハチでは常に、こうして4時から特売市を開いているのだ。

「本日もスーパーマルハチにお越しくださいまして……」

 お決まりの挨拶の後、今日のお買い得商品の案内に移る。

 案内されている商品を聞いて風華は何かぴんと来たようだ。

 レジに向かうのをやめて、その商品を手に取る。

 明日の朝ごはんはこれにしよう。

 しかしながらこの商品が後に、ある少女を悲劇に突き落とす事に鳴ろうとはこの時風華は予想だにしていなかった。

***

 8月28日金曜日。

 週末も近づいてきたこの日、さくら寮の皆は週末をどう過ごそうか模索していた。

 少女が目を覚ました時、窓から日の光が燦々と降り注いでいる。

 半袖で眠っていたため若干はだが冷たいが、部屋の中は暖かい。

 そんな妙な感じ。

 少女は服を脱ぎ、制服に着替える。

 髪を整えて、下に下りる。

「おはよう」

「沙耶ちゃん、おはよー。ご飯できてるよー」

 昨夜も遅くまで宿題をしていたせいか、ちょっとだけ眠い。

 席について風華が朝ごはんを運んできた。

 白いご飯に味噌汁。

 そして、発泡スチロールの小さな容器。

「……?」

 沙耶が蓋を開ける。

 戦慄した。

 鼻を着くような腐敗臭。

 糸を引く奇妙な姿。

 沙耶の背筋が凍った。

「ひ……」

「沙耶、先輩?」

 それを食べていた真が肩をゆすろうと手を伸ばす。

「ひゃぁぁぁぁっ!?」

「うぁ!」

 突然妙な声を上げる沙耶。

 思わずびくっとなる真。

 そのまま時間が止まったように固まる二人。

 を、よそに朝ごはんを食べる風華。

 どうしたと言うのだろう。

「沙耶、何よ今の声」

「ね、ねねねね」

「落ち着け」

 いつも冷静な沙耶からは想像できないほど慌てている。

 いや動揺しているといったほうが正しいか。

 涼子が机の上においてある容器を手に取る。

「あー、納豆ねぇ」

「まさか沙耶先輩、納豆苦手とか?」

「さすがの推理力ねー。そういうこと」

 どうして言わないんだ、この女、と恨めしそうな目で涼子を睨む沙耶。

 最近さくら寮では沙耶の納豆嫌いを気遣い、納豆を出す事を止めていた。

 それが段々と、涼子たちの脳から「沙耶は納豆嫌い」という情報を薄れさせていったのだ。

 彼女達にとっては納豆を出さないと言う事が普通になりつつあった。

 しかし風華はそのことを知らなかったのだ。

 だから納豆を出した。

 だから沙耶がこんなにも動揺している。

「何で納豆嫌いなんスかー。美味しいのに」

「嫌よ! 腐ってるのよ!? 体に悪いに決まってるわ!!」

 それこそ偏見と言うもので。

 最近ではカルシウム配合など現代人が不足しがちな栄養素を含んだ納豆まで販売されている。

 納豆は体に有害と言う事はないのに。

 腐っている事と体に悪いと言う事がものの見事にイコールで結ばれている。

「沙耶」

「何よ」

「好き嫌いは良くないわよ」

「分かってるわよ」

 にこっと微笑む涼子。

 目は笑っていない。

「ならば食べなさい」

「ひぃ!」

「酷いなぁ、相変わらず」

 それを涼子から取り上げてかき混ぜる。

 涼子と沙耶の視線は真に。

 余ったご飯にかけて一気に飲み込む。

「うまー。ご馳走さまー」

「流しに食器は入れといてねぇ」

 歯を磨いて学校に向かう真。

 残された沙耶と涼子、そして何時からいたのか幽霊さん。

 他の皆はもう寮を出た。

「とりあえず卵焼き食べる?」

 風華が沙耶に差し出した。

***

 結局そんなことがあったので朝ごはんはろくに食べる事ができなかった。

 朝ごはんを抜くと思考能力が低下すると言われている。

 沙耶にとってこれ以上不覚な事は無い。

「うぅ……お腹空いた」

 いつもの沙耶からは創造できないセリフを吐く。

 購買はまだご飯物を販売している時間ではない。

 かといって缶ジュースなどで腹を膨らませようとすると結構な量がかかる。

 ぐったりと机に突っ伏す沙耶。

「沙耶ー、次ぎ体育だけど着替えないの?」

「ふふ、地獄だわ……」

 お腹がすいているときの体育ほどきついものはない。

 体操着に着替える。

 そのときの女子と男子のやり取りと来たら。

 とても書けない様な内容であるのは間違いない。

「あれー、沙耶。ちょっと痩せた?」

「ちょ、どこ触って……」

 痩せたのは気のせい。

 朝食を食べていないからだ。

 太っているよりはやせているほうが体にはいいのだが。

 それでも沙耶は細身なのでこれ以上痩せたら体が壊れてしまう。

「ダイエットもほどほどにしなさいよ?」

「ダイエットじゃないって」

 教室を出て他のクラスと合流する。

 ちなみにこの体育の授業、少し複雑で。

 1組から3組、4組と5組が合同授業。

 クラスが多いのでこうして別ける事になっているのだ。

 沙耶は4組、5組の人間と授業を受ける事に。

「真名瀬妹ー」

「赤木くん……やめてよその呼び方」

「いやぁ、間違ってないしなぁ」

 何故か照れる。

 その反応はおかしい。

「そんな事よりも、痩せた?」

「えー……何でそこに戻るのよ……」

「まあ冗談は置いといて、あの子、元気かい?」

 あの子と言われてもぴんと来ない。

 どの子のことか、沙耶は暫く考えていた。

 それでも答えは浮かばない。

「はい残念ー。幽霊のあの子だよ」

「ああ、幽霊さんね。幽霊だから元気って言うのは変かもしれないけど、元気だけど?」

 そういわれるとユウマの顔がにへらと歪む。

「そのうちまた会いに行くからって伝えといて」

「はいはい、そのうちね」

「……興味深いな」

 ふと後ろからボソリと声がした。

 二枚目なのに酷く変態、白崎 駿その人である。

 始業式とは違いちゃんとヒゲはそってある。

 こうしてみると本当に顔形は整っている。

 しかし内面が――――――――――。

「幽霊と言うものはこの世に未練なり心残りなりを残している。それを探すために留まる。それが幽霊なのだ。例えばある約束の場所で待つ犬がいるとしよう。おっと、ここからは犬の話になるが良いな? まぁお前達の意見など聞いてはいないけどな! さて、待ち合わせの場所に待つ犬がいるとしよう。その犬は何時までも何時までも大好きなご主人のことを待っていた。そして待ちすぎて待ちすぎて、自分が何時しか寿命死んでいると言う事に気付かないでいた。  そしてご主人を見つけたときその犬は安心して点に召されたという話がある。ちなみにこの犬は雑種で」

「変態」

「変態」

「変態」

「ふむ、変態と言うのは時に天才になりうるのだ。なぜならば、天才も変態も言っていることが常人には理解しがたいからだ。歴史的な発見となる数式や発明品を生み出した科学者の言う事など常人には理解できようか? 否、出来まい! 故に変態とは天才の裏の顔であり、変態を卑下する輩は、その変態によって踏まれてしまえ!」

 妙なマシンガントークに若干引いた。
 
「そろそろ行こうか」

「そうね」

 白崎駿。

 何だかもったいない子である。

***

 体育は9月下旬に行われる競歩大会に向けての練習だった。

 初めにコースマップが配布され、次に今後の授業の取り組み。

 今後の授業は、授業開始から5分ほど準備体操。

 その後、授業終了までロードワーク。

 もちろん目標を決めて走るも良し。

 目標を決めずにまったりと練習するも良し。

 それは取り組む生徒によって違う。

 沙耶は憂鬱で仕方なかった。

 バドミントン部で走り込みをしているものの、昔から走るのは苦手だった。

 逆に元気の塊である涼子はそういう走り込みなどは好きだった。

 そんな涼子も今では部活をやっていないのだが。

 話を戻すと沙耶も運動音痴と言うわけではない。

 人には得手不得手がある。

 沙耶が勉強が得意な代わりに走るのが苦手。

 その事を克服する意味もこめてバドミントン部に入った。

「沙耶ー。本当にダイエットじゃないのね?」

 小声で話しかけてくる友人に、沙耶はため息をついた。

「本当だってば。何で私がダイエットしなきゃならないのよ」

「そうよねぇ。沙耶って細身だし」

「ちょ、だからどこを触って……!」

「これ以上細くなったら体がポッキリ折れちゃうわ」

「それはないわ」

 的確に突っ込んでみる。

「以上で説明は終わるが、これから授業終了の20分、学校の周りを走りこんでもらう。ちなみに、サボっているやつがいないかどうか俺たちも自転車で後を追うから気を引き締めるように!」

 若干のブーイングが起きたものの、準備体操を行い。

 正門前に集合する。

 校庭周りの20分はとにかく長いの一言に限る。

 初めこそ意気込んでいた生徒も、10分を超えた辺りでだらけ始める。

 この20分をとにかく完走できるのは陸上部など普段から走っている生徒か、物好きか。

 その物好きがいた。

「白崎のやつスゲェなぁ」

「ほぼあれってトップスピードだろ」

「アイツ部活なんだっけ?」

 そんな声がちらほらと聞こえる。

 暫くすると大半の生徒はちんたらと歩いていた。

 教師の檄が飛ぶが、殆ど効果はない。

 そもそも「競歩」なので走らなくても良いのだが。

「ふぅ……はぁ」

 走っては歩き、走っては歩きを沙耶は繰り返していた。

 逆に疲れるのでどちらか一つに絞ったほうが良いのだが、彼女はそんなことを考えている暇はないようだ。

 体育が終われば後は。

 そう考えたときだった。

 不意に目の前が揺らいだ。

「あ……」

 そう口にしたとき、沙耶の華奢な体は地面に倒れこんだ。

***

 沙耶が倒れたと言う話はさくら寮の皆の耳にすぐに届いた。

 話の大元はユウマ。

 休み時間を利用して保健室に詰め寄る。

「沙耶!?」

「保健室ではお静かにね」

「はーい……」

 涼子が黙る。

 皆が心配そうに沙耶を見ている。

「大丈夫よ。診察したところ、体に外傷もないし中にもね」

「そうなんですか……安心しました」

「でも、沙耶先輩急にどうして?」

「……あ」

 杏里が呟くと。

 沙耶のお腹に耳を当てる。

 そしてこう言ったのだ。

「……お腹空いていたのかも」

「く、空腹で倒れたわけ!?」

「……多分」

 朝、沙耶が食べたものといえば風華の差し出した卵焼きのみ。

 それに沙耶は成長期。

 しっかりと栄養を摂取しないと体に悪い。

 そもそも、納豆嫌いに始まった今回の卒倒事件。

 意外な結末となったのは言うまでもない。

「ま、まぁ朝ごはん抜いてりゃ倒れるわよ、ねぇ?」

「え、あ、はい……」

 涼子とひなたが顔を合わせて苦笑いする。

「あとありがとうね、赤木くん」

「いえいえ。いやぁ、でも倒れた時は驚いたけど……」

 すると、沙耶が目を覚ました。

 辺りを見回し、今自分が置かれている状況を把握する。

 競歩大会の練習をしていて、頭がふらついて。

 気付いたらここにいた。

「……そういうこと」

 どうやら理解したようだ。

 皆が安堵の表情を浮かべる。

「まったく、朝ごはんを抜くから倒れるのよ」

 涼子が軽く沙耶の頭を叩く。

 さすがに倒れて反省している沙耶の表情を見て、それ以上は何も言わない。
 
 普段破天荒な涼子だが、やはり姉と言う事か。

 妹の事が心配でたまらなかったのだろう。

「今度から、絶対に朝ごはんは抜いたらダメだからね。特に納豆」

「……それは無理だわ。でも」

 その顔には笑み。

「ちょっと、頑張ってみようかしら」

 迷惑をかけてしまった。

 今後、今回と同じことがないように。

 少しは頑張ってみようと、沙耶は考えたのだ。

***

 その後、沙耶が納豆を食べれるようになったかどうかは定かではない。

 しかしあの事件以来、彼女が朝食を抜くと言う事はい一度たりとも無くなった。


(第五十九話  完)


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