第五十八話 新学期と変人と

 8月24日、月曜日。

 窓から日差しが部屋の中に入り込む。

 真はまだ布団にもぐっていた。

 今日がどういう日か、それすら忘れて。

「むにゃ……ふが」

 慌しく階段を駆け上がる足音。

 その音にすら気付かず彼は夢の中。

 だが、人は絶望の真実に気づいた時。

 恐怖する。

「しんちゃん、早く起きてー! 新学期よー!」

「ふおぉっ!?」

 風華の声で飛び起きる。

 しまった。

 忘れていた、どうしよう。

 そんな事が頭の中を駆け巡る。

「早く着替えて!」

「う、うん!」

「ご飯食べて!」

「も、もごー!」

「いってらっしゃい」

「いや、無理がある」

 冷静に切り返す。

 とりあえず現時刻を確認する必要がある。

 目覚まし時計を確認する。

 現在午前6時50分。

「あれ……まだ7時前じゃない」

「えー?」

 風華が部屋を去ろうとした時。

「あ、それ止まってるよ。今7時50分」

「ぎゃー」

 だから慌てていると言うのに。

 とはいえ、寮から学校まで5分とかからない。

 これが寮生の利点なのだ。

 8時30分までに起きて、支度をすれば8時40分からの朝礼には間に合う。

 自宅通学の生徒にはない利点である。

「ちょ、早く降りてー! 間に合わないから!」

「んもー、慌てちゃだめだよぉ」

「慌てて俺の部屋には行ったのはどこの誰さ!」

 階段を降りて朝食を食べる。

 先述したとおり8時30分までに起きれば、問題はないのだが。

 風華の言うとおり、慌てることなどないのだが。

 朝食はパンと目玉焼きだった。

 醤油をかけて、飲むように食べる。

 体に悪い食べ方をするもので。

「ごちそうさまでした!」

「つ、塚原さん、早い……」

「そんなに慌ててどうするのよ。始業式までまだ時間があるのに」

「そうよそうよ、涼子先輩みたいにもっとゆっくり……」

「委員長だから色々とあるんですよ!」

 委員長だから色々ある。

 分からないでもないが。

 そもそももう少し早くに起きない方が悪い。

 で。

 手早く朝食を済ませた真は慌しく寮を出る。

 9月が近いとはいえ、まだまだ暑い。

 温暖化のせいもあって、今年の夏は特に。

 夏服の繊維の隙間を風がすり抜けていく。

 下駄箱について、上履きを履き。

 階段を上る。

 久しぶりの教室にたどり着いて、扉を開ける。

「おう、いいんちょ。お久さしー」

「ああ」

「いいんちょ、おはよー」

「うぃ」

 一言二個と挨拶を交わして。

「真ー、聞いてくれよぉー」

「ひゃ!」

 彼方が現れた。

 どこか嬉しそうな顔をしている。

 理由を聞くべきか、聞かざるべきか。

 真は悩んでいたが。

「この間さ、七海の家に行くって言ったろ?」

 分かっていた。

 悩むだけ無駄なんだと分かっていたのに。

「そしたらさ、あいつ、9月になったら戻ってくるんだってさ!」

「は……マジでか?」

「そ。また彼方様と一緒の学び舎ですわー、だってさ! まいったね、コノォッ!!」

 真の頭をバカスカと叩く。

 照れ隠しだろうか。

 被害を受けている真にはたまったものじゃない。

「おはよー、塚原くん」

「あ、有馬さん」

「ぃやぁ、遥! おはよう!」

「ふ、ぇ……? どうしたの、木藤くん」

「さぁ? 変なものでも食べたんじゃないかな」

「七海が9月に戻ってくるんだってさ! まいったね、コノォッ!!」

 またしてもこの男は真の頭を殴る。

 それも同じようなセリフを2回も聞かされて。

 遥もその知らせは素直に嬉しいのだろう。

「それにしても、彼方、お前鈴原さんに対して変わったよな」

「何が?」

「最初ころ俺と一緒にギャーギャー言っていたのに……」

「ま、ラブラブってやつ? この間アイツの家に泊まったし」

 瞬間。

 クラスの空気が凍る。

 その発言、今この空間でするものじゃないだろう。

 真は頭の中で小さく警告した。

 その後の展開は容易に想像できた。

 もみくちゃにされる彼方。

 主に集まってきたのは話好きの女子と、その手の話題に敏感な男子。

「言わんこっちゃない……」

「今じゃ目に入れても痛くないほど好きなのよ、例えが違うけど」

「んー……そういうものかな?」

 真にはあまりぱっとしない話でもある。

「ま、二股とかしなきゃいいんと思うけどさ……」

「二股なんかするかよ、馬鹿! あー、もー、七海かむばーっく!」

「戻ってくるだろ」

 どうやら本当に彼方はいつの間にか七海にぞっこんらしい。

 二股をしないと言い切ったが、果たして大丈夫だろうか。

「はいー、皆席につくー」

 真由が教室に入る。

 そそくさと席に着く生徒達。

「はい、いいんちょ。挨拶」

「きりーつ」

 立ち上がり、礼の号令で頭を下げる。

 その後は真由から今日の日程が告げられる。

 始業式の後、諸々の提出物を出して今日は終わり。
 
 明日は学期初めの大掃除、授業は水曜日からとなる。

 始業式は1時間で終了予定。

 提出物もそんなに長くはかからないだろう。

 そして午後から部活。

 10月の県大会に向けて頑張らないとならない。

「以上で、連絡終わり。じゃあ廊下に並んでー」

 立ち上がり、廊下に並ぶ。

 別の場所ではちょっとしたイベントが起きていた。

***

 2年4組。

 さくら寮では、亜貴と沙耶がこのクラスにいる。

 他にはユウマが同じクラスでもある。

 二人とも始業式に向かうために廊下に並んでいたところだが。

「先生ー、白崎がいませーん」

「またか……。長期の休みの後はいつもいつも……」

「あ、キター」

 ひげを微妙に伸ばし、剃れば二枚目の男が現れた。 

 白崎駿、その人である。

 顔は二枚面だが如何せん言動が常人には理解しがたい。

 しかも無口。

 そこでついたあだ名が「変人」。

 なんとも不名誉なあだ名であるが本人は特に気にしていないようだ。

 本人曰く「天才と変人は紙一重。皆がそう言うのは俺が天才だから」と言っている。

 もうそこからして言動が変であるのだが。

「しーらーさーきぃー……!」

「ん」

「こんの、馬鹿者が! 始業式に遅れる馬鹿がどこにいる!」

「……理由がある。俺にはちゃんと理由がある!」

「言ってみろ」

「……朝俺が急いで自転車をこいでいると、道端で子犬が鳴いていた」

 瞬間、皆が顔を手で覆う。

 子犬、犬。

 彼は無類の犬好き、放し始めたら止まらない。

 まさかこうなるとはクラスの誰もが思っていなかっただろう。

「その子犬は足を怪我していた。俺は迷った。始業式にいくべきか行かざるべきか! しかし! 俺は愛犬家、目の前で鳴いている子犬を見捨てて学校に向かうほど、血も涙もない鬼ではない! そもそも犬と言うものは元来より人間と互いに協力し合い生き抜いてきた由緒ある動物なのだ! その動物を誰が見捨てることが出来ようか、いや、いない! だから俺はその子犬を自転車の籠に入れてなるべく怪我した箇所を刺激しないように、ゆっくりと動物病人に向かった。俺は治療が終わるまで動物病院で待機した。そうだな、時間にして数分だった。出てきたその子犬の足には包帯が巻かれていたが、早々大きな怪我ではなかったらしい。俺は歓喜した! その子犬を再び籠に収めて、広場へ向かった俺は子犬を解放した! 子犬はあろうことか俺に懐いてきた! でも俺には学校がある! ああ、神よ! 貴方はどうしてこうも非常なのか! 俺と子犬の出会いを始業式などという下らない恒例行事によって引き裂くなど、何故もそう意地が悪いのだろう! 憎い! 始業式が憎い! その念を胸に俺は自転車を飛ばし、ここにいるわけですが、何か問題でも?」

「……いや、いい。さっさと並べ」

「白崎、おつー」

「すげぇ、マシンガン。久々に聞いたな」

 そんなことを耳にする。

 沙耶はげんなりとしていた。

 曲者が非常に多いこの学校でも、この白崎と言う男はさらに苦手だった。

「どうした、真名瀬妹」

「……何でもないわよ、赤木君。頭痛がしてきたわ」

「頭痛? 急にか?」

 そんな馬鹿な話があるわけがない。

 どう見てのさっきのマシンガントークのせいである。

「さてはUMAの仕業か!」

「ここにも馬鹿が一人ー!?」
 
 普段あまり大声を出さない沙耶がつい大声で叫ぶ。

 2学期は色々な意味で波乱の幕開けとなりそうだったのだが。

 体育館へ向かう途中。

 廊下に設けられている小さな階段を上るとき、亜貴が誰かの足を踏んだ。

「あ、すいませ……」

 言うのを途中で止める。

 しては智樹だった。

「……ハァ」

「お前、人の足を踏んでおいて謝らないつもりか」

「はいはい、ゴメンゴメン」

「貴様ッ!」

 新学期早々から嫌なやつの顔をみたと亜貴は心底後悔した。

 もっと踏んでやろうかしらとも思った。

「ふん、新学期早々貴様なんぞと言葉も交わしたくないがな」

「そりゃこっちのセリフだろう、馬鹿野郎が」

 にらみ合う二人。

 どうやらこの決着は、部活内で決めるしかないようだ。

 フリースローで決めるしか。

***

 始業式は案の定、つまらないものだった。

 生徒主任の話。

 学年主任の話。

 校長の話。

 夏休み中に優秀なせいs形を納めた部活や生徒への賞状の授与。

 そのどれもが真にとってはどうでも良いことだった。

 しかもこの学校の校長と言うものがのんびり者で。

 話の合間合間に「えー」だとか「あー」だとか必ず一泊置いている。

 これが余計に話を長く感じさせる要因となっていた。

 結局、予定時間を15分過ぎて始業式は終了した。

 その後15分の休憩ののち、LHRは始まった。

 真由からのありがたい話の後、提出物を集める。

 通信表に、宿題。

 あとはアンケートなどなど。

 細かいものを提出し、再び真由のありがたい話。

「今日から2学期と言うことだけど、2学期は色々な行事があるから頑張っていきましょう。競歩大会に体育祭。貴方達一年生は本格的に部活の試合に出たりと」

 確かにこの2学期は色々とありそうだ。

「ここにいる貴方たちなら大丈夫だと思います。で・す・が、くれぐれも先生に迷惑をかけないようにね」

 ああ、そうだ。

 これだ、これだよ。

 これが夏休み明けの学校なんだ。

 先生も生徒も皆妙なテンションで。

 これこそが夏休み明けの学校なんだと、真は再認識した。

「と、いうことで……今日はここまで! 解散!」

 早々と終わったLHR。

 まだ11時30分。

 部活が始まるのは1時から。

 一時間以上も暇がある。

 そうだ、食堂に行こう。

 食堂に行けば、誰かに会えるかもしれない。

 新学期祝いだ。

 何か大きいものでも食べよう。

 そうだ、スペシャルボリュームカツ丼なんてどうだろう。

「あ」

 案の定、食堂一歩手前でさくら寮の面々と出会った。

 ひなたが、涼子が、沙耶が。

 和日が杏里が亜貴が、そこにいる。

「おー、塚原。一緒に飯でも食うか」

「塚原さん早く並びましょ」

「あらやだ、塚原くんニヤニヤして」

「全く、新学期なんだからしっかりしなしなさいよね」

「そうそ。ねー、涼子先輩?」

「ご飯、食べよ?」

 見ると後ろには彼方と遥かがいた。

 皆が並んで、各々が食べたいものを頼み、席に座る。

「それでは、いただきます」

「いただきます!」

***

 意識が覚醒した。

 朝の眩しい日差しが真の顔を照らす。

「……え?」
 
 上半身を起こす。

 妙にリアルな夢だった。

 いや、夢じゃない。

 いや、夢だ。

 頭の中がぐるぐると混乱している。

「きょ、今日は何日だ? 何時だ?」

 携帯を開いた。

 8月27日、午前8時15分。

「きゃーーーーーーーーーっ!!」

 新学期早々遅刻をするわけにもいかない。

 急いで制服に袖を通して。

 一階に降りて朝食食べて。

 風華からのアプローチを避けて。

「なんでよー」

「時間が無いの! ああもう、何だったんだ、あの夢は!」

「夢? どんな夢見たの?」

 真がふと止まり、頭の中で考えた。

 しかし、夢は起きたとたんに頭の中からポロリと零れ落ちてしまう。

「ねぇねぇ、どんなのー?」

「忘れたよ! 行ってくるー!」

 寮を飛び出す。

 今日も真夏日と言う予報。

 でも、どこかすがすがしいのは新学期二日目だからか。

 真は走る。

 風のように走る。

 どこまでも、走る。

 1年4組。

 今日も騒がしい一日が始まるのだ。

「おはよー」

「いいんちょ、おはよー」

「よう、真! 聞いてくれ、昨日七海からメールがあってさ」

「あー、後で聞いてやるよ」

 ふと外を見ると、そこには青い空が広がっていた。


(第五十八話  完)


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