第五十三話 貴方はその空を見ていますか?
「それじゃあ行って来ます」
それが彼の最後の言葉だった。
玄関で靴を履いて、娘に見送りのキスをされて。
いつも通り車に乗って。
バックミラーに映る娘と妻の姿。
今日も良い日になる、はずだった。
次に彼と出会ったのは、燃え盛る陸橋でのこと。
隣の女性は泣き叫び、崩れ落ち。
自分は目の前の悲惨な光景に声も出なかった。
桜井ひなた、8歳のことである。
***
「……ッ」
気がつけば自分は眠っていた。
揺れる電車はまるで母の腕の中のように安心できる。
まるで揺り篭のように。
「眠って、しまいました……」
あくまで取り乱すことなくおっとりと、ひなたは呟いた。
眠い目をこすりながら今どの辺りかアナウンスに集中する。
次の停車駅、緑ヶ丘がひなたの降りる駅。
県庁所在地である甲府のすぐ隣に位置する町。
甲府に近いこともあって、人気のある賑やかな町。
そこに帰るのは、夏休みと冬休みの2回。
一回は年越しを家で行うため。
もう一つは、父の墓参り。
今回の帰省も、墓参りが目的である。
「……降りなきゃ」
蒼橋駅で買った切符を手に、出入り口に移動する。
緑ヶ丘で降りる人が集中する。
車両の大体二割程度の人が降りるようだ。
電車が減速を始めた。
踏み切りを超え、見えてくる駅のホーム。
過ぎてゆく人の影を横目に、ひなたは久しぶりのこの町に帰ってきた。
「緑ヶ丘〜、緑ヶ丘〜。お降りの際はお忘れ物などに」
車掌のアナウンスが流れ、扉が開いた。
勢いよく流出する人の波。
波とはいえ小さいものであるが、ひなたは押し出された。
転ばないようにバランスを取りながら、駅のホームに立つ。
古びたイスに、代わり映えしない自動販売機。
そして時々休む売店。
前に来たのは2004年の12月。
それから約8ヶ月が過ぎたが、ほとんど変わっていない。
変わったといえば、自動改札に磁気式のカードが使用可能になったことくらいか。
確かSuicaと言った。
本当は2001年から施行されていたらしいが、山梨ではつい最近導入し始めた。
これにより自動改札で詰まるという事態を解消できるわけだ。
しかし山梨で自動改札が詰まるという現象は、甲府でしかほとんど見受けられない。
その他の駅では多少窮屈な感じがあるが、困ると言うほどでもない。
自動改札にひなたは切符を通した。
ゲートが開き、通路を進む。
南口から出出ると広がる、緑ヶ丘。
そのまま道絵を直進し、スポーツ公園を通り過ぎる。
見えてくるのは、とある一軒家。
そこがひなたの実家だった。
「ただいま、お母さん」
「あぁ、ひなたおかえり。早かったじゃないの」
「うん、予定よりも少し早く着いちゃった」
さすがに家族であるために敬語ではない。
靴をそろえて、荷物を置いた。
そして家に帰ると真っ先に仏壇の前に正座をする。
蝋燭に火を点け、線香の先に火を灯す。
その日を手で仰いで消した後、立てて両手を合わせた。
「お父さん、帰って来ました」
***
ひなたが持ってきた荷物を自室において、リビングに座った。
現在、母である紅葉が見ているのは成績表。
「んー……、ま、可もなく不可もなくってっところかしら?」
「そう、かな? もうちょっと頑張らないと大学に……」
「まだそういうこと考えなくてもいいわよ。ひなたはひなたなんだから。それはそうと」
成績表を閉じた。
まじまじとひなたを見たあと紅葉の口元が緩んだ。
小首をかしげるひなたとは真逆に、紅葉は笑みを浮かべたまま。
「今日、何食べたい?」
「え?」
「せっかくひなたが帰ってきたんだもん。何でも好きなもの作ってあげる」
そういわれると返答に困るのが人間である。
何でもと言う非常に曖昧な言葉。
本当に何でも作ってくれるのだろうか。
悩んでしまう。
思い切って。
「お……」
「ん?」
「オムライス」
ひなたは母の作るオムライスが好きだった。
いや、今でも「好き」である。
若干甘いのが紅葉のオムライスの特徴。
それを聞いた紅葉も気合を入れて振舞うつもりだ。
早速オムライスを作るために冷蔵庫の中をチェックする。
ひなたも、あとに続くが。
「……何もないね」
「買いに行くわよ、ひなた」
「今から!?」
***
緑ヶ丘商店街は家から10分ほど場所に位置するアーケード街。
古き良き商店街と言った風貌で、この町に住む人々にとってなくてはならない場所である。
商店街の入り口には八百屋と魚屋が位置し、少し進むと小さな雑貨屋や書店がある。
アーケード街ゆえにどの店も小さいが、それでも活気に満ち溢れている。
紅葉とひなたが緑ヶ丘商店街にたどり着いたのは11:50のことだった。
お昼時と言うことで、昼食を作る主婦や仕事の休憩時間だろうか。
OLが喋りながら歩いている。
「じゃあひなたは野菜買ってきてね。私は玉子買ってくるから」
「うん」
紅葉から渡されたメモを手に買い物を始める。
人参、ピーマン、たまねぎ。
必要なのはこれだけだった。
「すいません」
「いらっしゃい。お、ひなたちゃんかい?」
「お久しぶりです、八百屋さん」
「あらー、ひなたちゃんじゃないの! まぁまぁ、久しぶり!」
八百屋の夫婦には小さい時から世話になっていた。
この八百屋の一人娘とは小・中学校と友達だった。
しかしながらひなたが蒼橋学園に入学することになって、あまり会うこともなくなっていた。
久しぶりに話をしたい。
ひなたはそう考えていた。
「ちょっと待ってね、今読んでくるから。和希、かーずーきー! ちょっといらっしゃい!」
まるで説教でもする時のような呼び出し方である。
どたどたと階段を降りてくる音がする。
「何よ! 今宿題進めてるって言って……る」
「こんにちは」
微笑むひなたに、現れた彼女は硬直した。
暫く、空白の時間が流れ。
「ひ、ひなー!」
「あわわ……」
走ってきて両手を握られ、あまつさえそのまま両手を上下にぶんぶんと振られる。
和希の剣幕と言ったら。
まるで有名人が町に来た時のようなテンションだった。
それだけ、この二人は仲が良いということである。
「向こうの学校はどう? 相変わらず楽しいの? 寮生活って辛い? 大変?」
「そ、そんなにいっぺんに聞かれても答えられませんよ……」
「だよねー!」
知ってるなら聞かなければ良いのに。
こうしてやんわりとひなたを困らせるのが、和希は好きだった。
とりあえず先に買い物を済ませ、その後は和希と話すことに。
ここ8ヶ月起きたことや、テストのことなど。
一方の和希も今は宿題に追われていることや部活の話などで妙に盛り上がっている。
「あ、あとねー」
「はい?」
「ほら、まーくんといっちゃんいるでしょ?」
そう言われて頭の中を探る。
その二人は幼馴染で、今では恋人同士だとか。
「その二人この間分かれたんだって」
「そうなんですか? あんなに仲良かったのに……」
「でしょ? 世の中何が起こるか分からないのよねぇ……」
しみじみと語りだす和希に、驚くひなた。
この二人は子の調子で息があっているのだから驚く。
しかもそのままひなたは靴を脱いであがりこんでしまった。
そこから世間話が展開、止まる事はない。
と、思われた。
「あ、いた! ひーなーたーっ!」
「お母さん……!」
「おやまぁ、こんにちは」
「あらどうも」
紅葉が八百屋に現れ、そこから見える奥の部屋にいるひなたを呼ぶ。
話に華が咲いたせいで忘れていたが、買い物をしていたのだ。
やはりひなたも女の子、友達と話をすると止まらなくなるもの。
気がつくと人参などを買ってから30分。
少量の買い物にしては長すぎる時間だった。
人様の家に上がりこみ、のんべんだらりと喋っている。
しかも店舗を経営している家だ。
「すいません、ウチのひなたがあがりこんで」
「いいのよ、いいのよぉ〜。ひなたちゃん、久しぶりに戻ってきたんだもんねぇ」
「おぉよ、人参一本オマケだ!」
「アンタ! それとこれは話は別だよ!」
こっちはこっちでケンカが始まった。
どっちも騒がしくなってきた。
「あぁ、もう! 帰るよ、ひなた!」
「そ、それじゃあまた今度」
「ひなー、今度は何時向こうに戻るの?」
帰り際、和希が訪ねてきた。
靴を履き終えたひなたが答える。
「明後日……ですね」
***
「全く、話すと長いんだから……普段のんびりしてるくせに」
「ごめんなさい」
「謝らなくても良いわよ。ただ、時と場所を考えなさいってこと」
今回は母親と買い物に来ていた。
仮にも用事を頼まれた身である。
買い物はしたが、ひなたは話に夢中で戻ることを忘れていた。
紅葉も母親、買い物から娘が戻らないと心配になるのは当然の事。
いくら小さな商店街とはいえ、最近は物騒な事件も起こっているのだからなおのことである。
「さ、帰ったらオムライス作るわよ!」
「手伝うよ?」
「そうしてくれると助かるわ」
家の玄関を開ける。
すぐにリビングのエアコンをオンにし、扇風機を起動させる。
涼しく、心地よい風が部屋中に広がる。
もうここから一歩たりとも動きたくは無かったが。
昼食を作らなければならない。
キッチンに立つ紅葉とひなた。
紅葉はオムライスを包む卵焼きとチキンライスを担当。
ひなたは主にそのサポートである。
「人参切っといて、四角でいいから」
「はーい」
「たまねぎ切っといて、みじん切りでいいから」
「はーい。……ぐすっ」
二人で作る料理は楽しく、過ぎる時間もあっという間だった。
紅葉のオムライスの特徴は、その玉子にあった。
高級レストランで食べるような、半熟の玉子をラグビーボール状に作り上げ。
それをチキンライスの上に乗せて、割ってみると。
みごとにふんわりとした玉子がチキンライスの上に広がっていく。
これこそが紅葉が最も得意とし、ひなたの好物のオムライスだった。
テーブルの上に並べて、テレビを点ける。
もう12時も終わりだった。
「いただきます」
二人がほぼ同時にオムライスを口に運んだ。
玉子の甘い味と、ケチャップのほんのりと酸味の効いた味が広がる。
「やっばいわ、美味しい……。うん、私プロだわ」
「うん、美味しいけど……自画自賛て」
「良いの」
まるで子供のようにすねて見せる紅葉に、苦笑する。
オムライスを食べながら、ひなたは考えていた。
今頃皆はどうしているだろうと。
年中、皆が一緒にいるためにこうして離れ離れになってしまうと、気がかりで仕様がない。
上手い事休みを満喫しているだろうか。
寮の管理人を引き継いで、来年の1月でちょうど1年となる。
順番で行けば、今度の管理人は真となる。
そもそもさくら寮の一年が真しかいないこの状況では、例え彼が嫌だと言ってもなってしまうだろう。
「そういえばひなたも来年は受験かぁ……。早いわねぇ」
「うん」
「どこか志望校とか決めてないの?」
「まだだよ。やりたい事だって見つけてないもん」
涼子は今頃四苦八苦しているだろう。
そして来年の自分はどうしてるだろう。
苦しんでる?
楽しんでる?
そんな事自分にだって、誰にだって分かるはずがないのに。
ついつい自問自答してしまう。
ただ一つ言えることは。
将来立派に就職して、早く紅葉に楽をさせてやりたいと言うこと。
幼少の頃に父を亡くしてから、8年。
ずっと女手一つで自分を育ててきた紅葉に。
そのためには大学に言って、資格を取って、立派な会社に就職して。
「あ、別に立派な会社に就職する、とか言わなくていいから」
ふと、考えていたことを見透かされたように紅葉が言う。
「ひなたはひなた、あなたのやりたい事をすれば良いわよ。私のことは気にしないでさ」
「お母さん……」
「あなたの人生だもの。私のために、なんてつまらないこと言わないでさ……もっと楽しまなきゃね」
その後、沈黙が続き。
オムライスを食べ終えたひなたが食器を片付ける。
「何か眠くなったわね。お昼寝でもしようか」
「ここで? 風邪引くよ?」
「良いの。こうして寄り添って……」
ふわりと良い匂いがした。
沈んでいく意識。
ご飯を食べたあと妙に眠気が強くなるのは、体が食べたものをエネルギーに変換しようと動いているかららしい。
それもあるが、今こうして母に抱かれていると言う安心感が、彼女の心を眠りへと誘う。
まぶたが閉じ、静かに寝息を立て始める。
「……ねぇ、あなた。ひなた、立派な子に成長したわよ……」
そこから見える空は、憂鬱な気持ちが晴れるほど爽やかに蒼く。
降り注ぐ日の光は、全てを包み込む。
「あなたも、今頃この空を見ているのかしらね……」
(第五十三話 完)
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