第五十二話  三島市へようこそ

 8月5日、水曜日。

 真が目を覚ました。

 昨日の夜は熱帯夜、窓を開けっ放しで眠っていたため若干だが喉が痛くなっていた。

「おはよー、しーんちゃん」

「おはよ。えらい張り切ってるじゃん」

「だって久しぶりに家に帰るんだよ?」

 真は約半年、風華は3ヶ月ぶりに家に帰る。

 下に下りると、ひなたが寮を出るところだった。

 手には修学旅行などに持っていく、円筒型のバッグ。

「おはようございます、塚原さん」

「おはようございます、ひなた先輩。もう行くんですか?」

「ええ。家までちょっと遠いので」

 そう言うと、彼女は微笑んで寮を出た。

 あと1時間ほどしたら自分も支度をしなければならない。

「塚原くーん、ちょっとそこ邪魔よ」

 今度は涼子と沙耶。

 何ゆえ皆そんなに急いでいるのか。

「ひなた先輩と言い涼子先輩たちと言い、そんなに慌しく……」

「何言ってるの、もう11時じゃない」

 11時と言う言葉を聴いて、完全に真は目が覚めた。

 てっきり9時くらいに起きたものだと彼は考えていた。

「支度しなきゃ……」

 どうして誰も起こしてくれないのだろう。

「しんちゃーん、まだー?」

「今起きたばかりなのにッ!?」

「杏里ちゃんも支度出来たのにー」

「うん」

 手早く着替えて、歯を磨く。

 顔を洗い終えて、洗面所を出る。

 特にこれと言って持っていくものは無いはず。

 家に着替えもあるし、遊ぶものもある。

 持って行くとしたら、財布と携帯くらいか。

「お待たせー」

「じゃあ行こうか。家に向かってレツゴー!」

「じゃあ行ってくるね、かっちゃん、あっきー」

「気をつけてー」

「おう」

 眩しい、そんな太陽の光をあびて3人は寮を出る。

***

 三島市。

 それは山梨県のほぼ中央に位置する町。

 もちろん実際の山梨に三島などと言う地名は無く。

 モデルは作者の住む町となっている。

 些か田舎と呼ばれる類の町。

 それゆえに、若干交通の便が悪いのが難点か。

 電車に揺られ、蒼橋市より20分少々。

 東三島駅に到着した。

 無人駅のホームに止まる電車の扉が開き、電車から人が降りてくる。

「あちー……電車の中が涼しかっただけに暑さが増してるような……」

「それはないよー」

「よー」

 何故この二人はこうも涼しい顔をしていられるのだろうか。

 気になって仕方が無い。

 風華が携帯を取り出し、口を開いた。

「あ、おかーさーん? 私だよー。今から家に帰るからぁ……うん、そう今から」

「あれ、連絡してなかったんだ」

「支度が忙しかったみたい」

 普通は逆だろうに。

 連絡をする、家に帰るの順。

 なのに家の近くについてから連絡をよこすなど、あまりしないことである。

「さ、行こうか」

「ねぇ、杏里先輩のこと言った?」

「……いこーか」

 目を合わせようとしない。

 言うのを忘れたようだ。

 真の両親も頭がダイヤモンドのように固い人間ではない。

 きちんと事情を話せば分かってくれるだろう。

 そして受け入れてくれるはず。

 真を蒼橋学園に無理やり入学させようとした時はさすがに喧嘩になったが、本来ならきちんと話し合うことの出来る両親である。

 あの行動は父も父なりに真のことを心配してのことだったのだろう。

 思えば、あそこで真が無理にでも他の学校に入学、もしくは浪人の道を選んでいたらさくら寮の面々と会うこともなかった。

 そう考えると、あの喧嘩が繋いだ道は良いものだったのだろう。

 東三島駅から、真の実家までは歩いて10分程度の道のり。

 全国的な夏休みのせいか、山梨の車道を走る車の中に県外プレートの車も多い。

 駅の近くの交差点を曲がり、小さな支店の銀行の前を通りすぎ。

 真の家の近くでも貴重な美容室前の交差点を横断する。

 そこからおよそ20メートルほど直進して、建設業者が目印。

 細道に入り、道なりに進んで3件目。

 淡いクリーム色の壁に黒味のかかった紺色の屋根。

 標識には「塚原」と書かれている。

 チャイムを鳴らして、応答を待つ。

 ぱたぱたと走る音がしたかと思えば、玄関が開いた。

「あらぁ〜、早かったじゃない。おかえり」

「ただいまー」

「ただいま」

 早速あがりこむ。

 そして出てきた真の母の目に映る杏里。

 杏里と真を交互に見る。

「……」

「何? 何かついてる?」

 この場合の「ついてる?」は、憑依的な意味合いではなく。

「……似てないわ」

「何が!?」

***

「なるほどねぇ……杏里ちゃん、か……」

「事情はよく分かった。この三日間、ここを自分の家だと思ってくつろいでいくと良い」

 父も含めて、杏里についての説明を行い。

 施設で育ったことや、虐待を受けていたこと。

 それらを話した。

 全て杏里にとって辛い思い出だけど。

 三日間、この家にいるのなら話した方が良いと、彼女からの希望だった。

「さて、と。今日は腕によりをかけなくちゃね」

「何で? まさか俺たちが帰ってきたからって理由じゃ……」

「何だ、真。知らないのか?」

「いやですよ、あなたったら。真が知るわけ無いじゃない」

 含むような両親の言い方に、真は首を傾げる。

 ふと、母の行動を目で追っていた真の視界に、カレンダーが移りこんだ。

 今日、8月5日のところに赤丸で印がしてある。

 両親の誕生日でもない、風華の誕生日でもない。

 ましてや真の誕生は本人も気付かないうちに過ぎていた。

 ならば何か。

 カレンダーに近づき、そこに書かれた文字を読む。

「何々……」

 風華も気になったのかカレンダーを見始めた。

 ぱっ、と笑顔になる風華と。

 それとは逆に非常に困惑した様子の真。

「な、なんだってぇーッ!?」

***

 遡ること1週間ほど前。

 塚原邸の前の一色邸。

 そこに一台の車が止まっていた。

 見慣れない赤い車で、バックには「LIFE」と書かれている。

 どうやら車の名前のようだ。

 その一色邸から出てきたのは、一人の女性だった。

「じゃあまた報告に来るからぁ」

 黒い髪を肩にかかるくらいまで伸ばし。

 頭には小さい月のついた髪留め。

 瞳はパッチリとしている。

 その日、外で洗濯物を干していた真の母親はその女性を見るなり声をかけた。

「さゆ……紗由ちゃん?」

「あ、おばさん。こんにちは」

 東京の大学に通っている一色 紗由。

 その彼女が戻っていたのだ。

 昔から塚原邸と一色邸は家族ぐるみの付き合いで。

 中でも真と風華、紗由の3人組はここいらでも評判のトリオだった。

 早速家の中に招き入れる真の母。

 冷たい麦茶を出し、近況を聞き始める。

 東京の大学に通い始めてもう2年。

 そんな紗由ももう20歳。

 彼氏の一人も出来たころである。

「へぇ、彼氏が出来たの」

 そんな事を考えているとやはり彼氏が出来たと言う報告。

 同じ大学の情報学部にかよう人間だと言う。

 気さくに話しかけて、いつの間にか一緒にいることが多かった。

 そして試しに「付き合ってみる?」と言ったらあれよあれよと言ううちに付き合うことになった。

 ただ、それだけではなかった。

「私達、結婚することになったんです」

「あら、あらあらまぁまぁ。そうなの? ぃやだ、おめでとう〜」

 あくまで普通に話す。

 驚いたが、騒ぎ立てると事が酷くなりそうなので止めておく。

「それでいつごろ式を?」

「8月の中旬か……早くて頭の方で行えたらいいなぁ、なんて」

 はにかんでみせる。

 こうしてまた一人、大人へとなっていくのである。

***

「と、言うわけなのよ」

「まさか、今日が式なんていうオチじゃ……」

「ううん、今日は紗由ちゃんが家に来る日なのよ」

「紗由おねえちゃんが来るんだ。またカレー作ってくれないかなぁ」

「ひぃっ!」

 奇声を上げる真に驚く杏里。

 紗由の作るカレーは真にとって一種のトラウマ。

 それは思い出したくも無いことである。

「そういうわけで、風華、手伝ってちょうだい」

「はーい」

「じゃあ俺は部屋に引っ込むかな」

 リビングを出て部屋に向かう。

 真の部屋は和室の横。

 6条ほどの部屋に、ベッド、小さなテーブルと置かれている。

 まだ高校生なので自室にテレビは早いと言う理由で置かれていない。

 しかし隣の和室には真愛用のPS2が置いてある。

 中学生の頃、夏休みになると夜更かしをしてゲームをしていたものだ。

「……」

 すると無言でついてくる杏里。

 真の部屋の前から中の様子を伺う。

「ん、どうかしました?」

「……いいなぁ、私、自分の部屋なんてなかったから」

 そう、施設でも皆と相部屋だった。

 杏里は自分の部屋と言うものを持ったことが無い。

 さくら寮ではそれぞれ部屋が割り振られているが、卒業してしまえばそれまでである。

「入ります?」

「良いの?」

「別に見られて困るものなんてないですし」

 部屋に入る杏里はその足でベッドにダイブした。

 こういった広々としたベッドで一度眠ってみたかったと言う。

「先輩、あまりはしゃがない方が……」

 弾みすぎて顔から落ちたのは言うまでもない。

「言わんこっちゃない……大丈夫ですか?」

「うん。鼻を打ったよ」

「さいですか」

 その時だ、玄関のチャイムが鳴り響いた。

 母の声が家に響き、続いて玄関の扉が開く音がする。

「あらぁ、紗由ちゃん」

「なんだってぇッ!?」

「本当にー!?」

 真と風華がほぼ同時に玄関に出る。

 確かにそこには紗由がいた。

***

 紗由を招きいれる。

 リビングに広がるお茶の香り。

「それにしても真くんもずいぶんと大人になっちゃって」

「そうでもないよ、紗由さん」

 最後に出会ったのは何時ごろだろう。

 確か風華がいなくなって、大騒ぎになった時が最後だった気がする。

 それから真も背が伸びたし、大人っぽくなったのは事実。

 しかし根底の部分は変わっていない。

 もっとこの3人で一緒にいたいという、子供じみた願い。

「風華ちゃんも……」

「はぇ?」

「うんうん、可愛い可愛い」

 その精神は全くと言って良いほど進歩していないが。

 紗由は改めて式の日程を話し始めた。

 本当は8月のうちに式を挙げたかったが大学のレポートなどの関係上、9月の終わりになるとの事。

 結婚したら、大学は辞める形になるだろう。

 なので今から就職活動をしていると彼女は付け加えた。

 紗由は両親からもちろん反対された。

 今も本当は快く思っていないはず。

「最後の最後まで反対されそうだけど……頑張らなきゃね。大学辞めてまで結婚するんだから」

「大人だなぁ、紗由ちゃんは。どれ、今日は杯でもどうだい?」

「私がお酒飲めないの知ってるくせにー」

 そうは言っても、付き合い程度になら飲むことは出来る。

 本格的にがぶ飲みなどは出来ないが。

「そうと決まれば今日は飲み会だな!」

「……また親父が暴走するのか」

***

 その日の夜。

 塚原家、一色家合同飲み会が開かれた。

 真の両親と紗由の両親が右手にビールの注がれたグラス、左手にはサラミを持って飲んだくれている。

 紗由も一応たしなむ程度の1、2口含んだが、酒に弱いのですぐに酔ってしまう。

 今はソファで横になって眠っている。

 その頃の真は一人で縁側に座っている。

 後ろでは大声で笑いあう4人の子供のような大人。

 風華は杏里と一緒に部屋にいる。

 珍しく真に懐いてこない風華。

 で、代わりに。

「んー、真くん?」

「紗由さん……? 風邪引くよ」

「だよねぇ。すっかり寒くなっちゃった」

 紗由が真の隣に座る。

 寒いのなら帰って風呂にでも入ればいいのに。

「ねぇ、蒼橋の学校に通ってるんだって?」

「そ。楽しいよ、すごい」

「それは良かったわねぇ」

 真の話に静かに耳を傾ける紗由。

 彼女も高校時代は友達との付き合いは積極的だった。

 勉強の方はお世辞にも頭が良いとは言えないが、それでも彼女は頑張って大学に入った。

「彼女の一人でも出来た?」

 少し前に真の母に言われたことを真に言ってみる。

「そんなの出来てませんよ」

 周りは面白い人たちばかりだが、と言ってみせる。

 ひなたのこと。

 涼子と沙耶のこと。

 和日のことに杏里のこと。

 遥のこと。

 蒼橋学園で出会った人のことを、真は話した。

「ふぅ〜ん、本当に楽しそうじゃない。寮生活も」

「そりゃぁ、楽しいよ」

「で、真くんは誰が好きなの?」

「え?」

 突然の問い。

 戸惑う真。

 そよ風が吹き抜けていく。

 夜の冷たい風に、真の体が包まれる。

「今の話聞いてると、楽しいを通り越してるんじゃないかなって気がするわ。ね、どうなのよ」

「どうって……」

 もちろんひなたが好きだ。

 一方的な恋である。

 しかし、今の紗由の話を聞いて果たして言い切れるのだろうか。

 言い切れるのだろうか。

「……分からないよ、そんなの」

「だろうね。恋なんて未知数、十分悩んだり、考えたり、失敗したり。そうして本当の相手を見つけなきゃね」

「……紗由さん」

「その紗由さんって言うの、止めない? 何かくすぐったくてしょうがないわ」

「…………うん」

 のちに真の決断力の甘さが、大きな修羅場を作ることはまだ知らない。

(第五十二話 完)


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