第五十一話  夏の一日

 8月4日、火曜日。

 有馬邸。

 邸とは言うが、ごく普通の一軒家である。

 朝の6時に彼女は―遥は目を覚ます。

 どんなに休みでも早起きは欠かせない。

 ベッドから降りて、窓を開ける。

 朝の涼やかな風が部屋一杯に広がっていく。

「今日も良い天気……良い日でありますよーに」

 机の上に置いてある眼鏡を手に取る。

 パジャマから私服に着替えて、髪を整える。

 顔を洗って、リビングに出る。

 もはや日課となっている彼女の行動。

「あら、おはよう」

 彼女の母が台所で朝食を作っていた。

 小さなフライパンからは油の撥ねる音が絶えず響いてくる。

 そして大き目のフライパンではほうれん草のソテーが作られているところだった。

 遥の母は、料理を作るということが非常に器用で。

 時間さえあればかなりの品数を作ることもある。

「もうすぐ、できるからね」

 もうすぐと言う遥の母だが。

 遥は分かっていた。

 元来より一つのことを徹底的に行わない時がすまない性分である。

 もうすぐといって結局、40分ほど朝食が遅れるということもある。

 だが、学校があるときにそれでは困るが生憎今は夏休み。

 部活も9時から。

 まだまだ余裕はある。

「もうちょっと……あらら、お塩を入れすぎちゃったかしら……」

「いいよ、部活に行くまで結構時間あるし」

「あらそう? 悪いわねぇ」

 満面の笑みで料理を再開する。

 こうなったらもう止められない。

 料理が出来るまで、テレビを見て過ごすことにした。

 朝のニュース番組を見ると、ちょうど占いのコーナーだった。

「はい、出来たわよー」

 料理が出来上がったのは、ニュース番組の終了の20分前のこと。

 出来上がったばかり故に、湯気が立ち上る。

 ほうれん草のソテーとご飯を食べる。

「今日は真夏日だってね」

「うん、さっき天気予報でやってたね」

 どうも34度にまでなるとか。

 水分だけはちゃんと採るように、と母に念押しされる。

「それじゃあ行ってきます」

「気をつけてね」

 8時30分。

 自転車にまたがってペダルを漕いだ。

 夏とはいえ朝方の風は涼しい。

 体を涼風が突き抜けていく。

 それがたまらなく気持ちよかった。

 張るかが学校へ行く通り道に、さくら寮がある。

 その少し手前で、2人の学生と合流した。

 ともに吹奏楽部の部員。

 上野貴人と山口佐夜の二人である。

「おはよー」

「有馬ちゃん、おはよー」

「おはよう」

 貴人と佐夜は幼馴染。

 小さい頃から二人はいつも一緒で。

 貴人は運動が出来るが、それらの誘いを蹴って吹奏楽部に。

 佐夜はそんな貴人と一緒がいいから吹奏楽部に。

「今日は何だっけ、部活」

「確かね、個人練習のあと楽曲演奏じゃなかったっけ?」

「まあそろそろコンクールだしな。気合入れていかないと」

 8月の中旬に蒼橋コンクールと言うものがある。

 なかなか大きいコンクールらしく、市外、はては県外からも参加があるらしい。

 別に優勝したからといって、その先に繋がるコンクールなどは無いが。

 かと言って手抜きをするわけにもいかない。

 優勝をする気持ちで取り組むしかないのだ。

 そんな事を話していると、さくら寮が見えてきた。

 そのさくら寮をじっと見ている遥。
 
 瞬間。

「どーして早く起こしてくれないんだよっ!」

「起こしたもん! おねーちゃんちゃんと起こしたもん!」

「ああ、もう行って来るー!」

 駆け足早に真が寮を飛び出した。

 もちろん遥には気づいていない。

 小さくなる真の背中を見る遥に、佐夜はニヤニヤし始めた。

***

 音楽室。

 9時から部活が始まり、1時間ほど個人練習。

 遥はトランペットを吹いていた。

 暑さのせいか、それとも別の要因かなかなか集中できなかった。

「調子でないなぁ……」

「あーりまちゃん」

 後ろから声をかけられた。

 バイオリンを机においた佐夜。

「暑さのせいかな? それとも別かな?」

「そ、それは暑さのせいで」

「ふふん、そうかなー?」

 ぐいと遥を寄せる。

 そして耳元でささやく。

「恋の熱かなー、なんて」

「ちょ、さーちゃん!?」

 ついつい大声を出してしまった。

 遥をからかう佐夜。

 しかし。

「うっ」

 突然後頭部に痛みが走る。

 貴人だ。

 貴人の軽めの水平チョップが、佐夜の後頭部に直撃したのだ。

「部活中だろ、静かにしとけ」

「あ、ごめん……」

「うぅ……痛い。けど貴人のなら」

「ちょ、その目は何だ」

 何か危ない視線を感じた。

「はいー、個人練習終了ー。今から合わせるよー」

 イスを出し、楽譜を開く。

 指揮者が指揮棒を掲げると、視線がそれに集中される。

 リズム良く、指揮棒が振られるとそれに合わせるように、部員の奏でる音がずれる事も無く演奏される。

 まずは課題曲。

 その後に自由曲が2曲。

 これがコンクールの演奏方法である。

 まだ演奏の順番などは決まっていないが、近いうちに顧問が集まって決まると言う話だ。

 が。

「あー、誰ー……? 音ずれたよー? はい、もう一回最初からー」

 外したのはトランペットを吹いていた部員。

 そのせいでもう一度最初から演奏することになった。

 演奏時間は全部で40分弱。

「はい、お疲れさまー。今日の練習はここまでで、一年生は掃除・片付けなどをしっかりとしておいてね」

 部活が終わったのは午後の12時50分のこと。

 この部の練習はいかに短い間に、どれだけ効率よく練習メニューをこなせるか。

 その方法でならだれることなく、適度に緊張感も保ったまま演奏が行える。

「それでは、お疲れ様でした」

「お疲れ様でした!」

 外は有り得ないほど晴れており、太陽の熱が道行く人の体力を奪っている。

 最近では熱中症で倒れる人も少なくはなく、ニュースでもひっきりなしに取り上げられている。

 一年である、遥と佐夜、貴人と数人の1年生が楽器を片付ける。

 全て使った人間が手入れをし終わり、あとは所定の位置に戻すだけ。

 その後、イスを片付けて箒で塵を取る。

 窓を開けて空気の入れ替えをした後、ゴミ捨てに向かうのも一年の仕事。

 それら全て終わったのは1時が過ぎた頃だった。

「貴人ー、有馬ちゃーん、帰ろー」

「だな。暑いし、早く帰って涼みたいし」

「うん、そうだね」

 3人揃って外に出る。

 中は日差しがほとんど遮断されるため、暑さも和らぐものだが。

 外だとその暑さも職説体に届く。

 そのため、外に出た瞬間にじんわりと汗がにじみ始めた。

 汗を拭い、駐輪所に足を運ぶ。

「暑い……だから夏は嫌なんだよ」

「私も……。これだったらまだ冬の方がマシだよぉ……」

「……」

 遥は黙っている。

 その目は虚ろで、眠たそうなのかそうでないのかはっきりとしない。

「有馬ちゃん?」

「……ん? ……なぁに?」

「何じゃないだろう。後ろから見てもフラフラしてるのに……」

 そう、先刻からどうにも遥の足元が定まっていない。

 顔もほんのりと赤い。

 ついにはその場に膝をついた。

「有馬ちゃん!?」

 熱にやられたのか。

 佐夜が肩を貸して、遥を何とかして日陰に連れて行こうとするものの、近くに休めるほど大きな木陰は無い。

 貴人は遥の自転車と自分の自転車の2台を押している。

 そうは言っても、どこかで休ませて水分補給をしないと本当に倒れてしまう。

「貴人、貴人! あれ、あそこ!」

 佐夜が指を指した。

***

 体がだるい。

 起き上がれない。

 だが、体の一部がひんやりとしているのは確認できる。

 起きることすら出来ないほど、体はまどろみの中に沈んだのか。

 覚えているのは、暑い日差しの降り注ぐ道を歩いていて。

 急に頭の中がぐるぐると回り始めたと思ったら、意識がとんだ。

「……う……」

 何とかして目を開けてみる。

 目の前には木目調の壁が広がっている。

 いや、壁ではなく天井か。

 遥は横になっていた。

「有馬ちゃん、気がついた?」

「……さーちゃん? ここって……」

「遥ちゃん、大丈夫?」

 風華が顔を出した。

 よくみると、ひなたも真も涼子もいる。

 それから察するまでも無い、ここはさくら寮だった。

「大変だったよ、何しろ有馬さんがそこの人に担がれて運ばれてくるなんて……」

 真の視線の先には貴人と佐夜。

 真はこの二人と初対面だった。

 見たことがあるような無いような、そんな感じだった。

「まだ動かない方がいいわよ。何しろ顔真っ赤だったんだから」

 涼子が部屋を出る間際にそう言う。

 まさか本当に熱にやられるとは、遥自身も思っていなかっただろう。

「大丈夫ですか? ひえぴたシートを貼ったんですが……」

「えと、ひなた先輩ありがとうございます。塚原くんもありがとう」

「ん、俺は何もしてないような……」

「そうだよぉ。真ちゃんは何もしてないんだから」

 風華が真にのしかかり、真が払おうと腕を振るう。

 それをまじまじと見る佐夜。

 そのまま視線を貴人に移す。

「俺は嫌だからな」

「くっ……」

 昔から一緒だった二人。

 小さい頃は一緒に遊んだりなど色々したが、今では高校生。

 そういうことをする年齢でもない。

 手を繋いで帰ったりも、もうしない。

 彼女は、少し寂しくなってきた。

「あー、もう! 俺は下に降りる!」

「うっうー、待ってー」

 風華がついていく。

 遥が言うには、あの二人は姉弟。

 とても仲のよい姉弟だと言う。

「さて、そろそろ帰るか、俺たちは」

「え、もう?」

 驚いたように佐夜が見る。

 何時までも長居をしても、邪魔になるだけ。

 別に貴人と佐夜は至って健康ゆえに何時までもここに留まることは、なるべく避けたいのである。

「そういうわけで俺たちは帰ります」

「もう少しいても良いんですよ?」

「いえ、これ以上いても邪魔になりそうなので……。俺たちは健康児ですし」

「貴人が言うなら、私も帰ろうかな……?」

「あの、二人ともありがとうね。それに、……ごめんね?」

 遥が軽く頭を下げた。

 貴人が立ち上がると、やや遅れて佐夜も立ち上がる。

 玄関に立ち、靴を履く。

「それでは、お邪魔しました」

 そういうと同時に、リビングから出てきた真と目があった。

「……」

 ただ何も言わずに視線と視線だけが交差する。

「何か?」

 貴人は先ほどのことを頭に浮かべていた。

 先刻までいた部屋で、遥は真の事をずっと見ていた。

「いや、別に」

「それではお邪魔しました! あの、有馬ちゃんのこと、あとはよろしくお願いします」

「はい、分かりました」

 一言二言、佐夜とひなたが言葉を交わす。

 真と貴人は何も話さず、二人はさくら寮を後にした。

***

 貴人と佐夜、二人が帰って若干静かになったさくら寮で。

 真達はリビングに集まっていた。

 夏休みが始まって2週間。

 今後の予定を話すためである。

「じゃあ塚原くんからね」

「俺から、ですか……」

 予定も何もほとんど立てていない。

 宿題だってままなっていないのに。

 今はまだ保留、決まり次第報告すると言うことで落ち着いた。

「あの、先に私良いでしょうか?」

 ひなたが手を挙げる。

 それを誰かが止めたりはせず、ひなたが予定を話し始めた。

「実は明日から三日ほど実家の方に帰ろうと思うんです」

「あれ、もうそんな時期……か」

「何かあるの?」

 風華がひなたに問うと、彼女は少し言うのを躊躇い。

「父の……お父さんのお墓参りがあるんです」

「あ、ごめんね……」

「いえ、大丈夫ですから。去年も8月5日から7日まで実家に帰ったんです」

 涼子たちはひなたの父が既に他界しているのを知っていた。

 唯一知らなかったのは真と風華の二人。

 気まずい空気が流れる。

「あ、あー……じゃあ私も家に帰ろうかなー、と」

「姉さんも? また唐突ね」

「いや、家に帰るっていうのは本当に考えていたのよ。ほら、進路のことで話さないといけないし」

 涼子は3年。

 夏休み中に進路について決めてこいと担任からもきつく言われている。

 ただでさえ他の生徒に比べて、遅れ気味なのである。

 この夏休みを逃したら、どうなるか。

 いかに進路や勉強の類に対して、怠惰な涼子でもそれだけは避けたかった。

 涼子が家に帰るというのなら、沙耶もそれについて行かざるを得ない。

 涼子一人で家に帰らせたら、両親とケンカするのは目に見えている。

 それを中和するのが、家での沙耶の役目。

 実際はもの凄く大変な役目である。

「かっちゃんはどうするのよ?」

「私は……どうしよう」

「そういえば、かっちゃんって家の話をしないよね」

 沙耶が言うと、皆が口々に「そう言えば」と言う。

 一体和日の家庭はどのような環境なのか。

 両親は何をしているのかなど、そういったことも話さない。

 いや、話そうとしないのか。

 事実、和日に家のことを聞こうとすると非常に気まずい表情をする。

 家で何かあったのか。

 それとも別の要因か。

「もしかしてお前、家出とか?」

 亜貴の冗談めいた一言だが、和日は睨みつけた。

「ご、ごめんなさい……」

 つい顔を背ける。

 その亜貴も皆が帰るのならばと言った感じ。

 特に家に帰っても報告することは無いのだが、皆が帰った後の寮に一人でいても楽しくは無い。

「じゃあおねーちゃんも帰ろうかなー。もちろんしんちゃんも一緒にー」

 先ほど予定は未定と言ったばかりなのに、もう決定してしまった。

 意外と早かった。

 おそらく残ると言っても半ば強制的に連行されるだろう。

 家に帰るのは半年振りくらいか。

 別段そんなに時間が空いたわけではないが、何だか1年ほど帰っていないような錯覚がしてならない。

「じゃあ今のところ皆帰るということなんだけど……杏里ちゃんはどうするの?」

「……私?」

 杏里が帰る場所などどこにも無い。

 今更3日間施設においてくれなんて言える訳が無い。

 誰かが一緒に連れて行くのか。

 それともここに残るか。

 残るとしてもご飯や洗濯など自分でしなければならない。

 学生ではない風華ならこなせるが、学生である彼女は宿題がある。

 故に家事をし、勉強をすることなど到底慣れていないので不可能である。

 そうなるとやはり誰かが連れて行くしかないのだが。

「じゃあおねーちゃんと来る?」

「……ふーかせんせーと?」

「杏里先輩が俺の家に? その発想は無かったわ」

 おそらく真の両親も受け入れてはくれるだろう。

 あとは杏里が了解するかどうか。

「うん、良いよ。私ふーかせんせーの家に行く」

「やたー! やったよ、しんちゃん!」

「ん、うん」

 こうして明日から三日、寮は空くことになった。

***

「あのー」

 皆がそれぞれの家に帰るということに落ち着いたとき、遥が顔を出した。

 仄かに頬が高潮しているが、ここに担ぎ込まれた時ほどではない。

「もう大丈夫なの? まだ休んでいた方がいいんじゃないかしら?」

「いえ、もう大丈夫ですので。お世話になりました」

 遥が頭を下げる。

 皆で遥を見送る。

 その時だ、突然思いついたように風華が真をキッチンに連れて行った。

「ちょっと、何だよふーねぇ」

「これ、渡してあげて」

 それは500mlのペットボトル。

 天然水だ。

 何となく言いたいことは分かる。

「でも、何で俺が?」

「……鈍感さんねぇ」

 彼女らしくない深いため息をついた。
 
 そのまま真の腕を引っ張り、再び玄関へ。

「あ、有馬さん? あのー、はい、これ」

「天然水……? 良いの?」

「良いみたい、だけどね」

 手渡されたペットボトル。

 それを見る遥。

「えへへ、ありがとう」

「どういたしまして」

「それでは、お邪魔しました」

「気をつけてねー」

「また倒れちゃ駄目だよ?」

 こうして、てんやわんやの一日は過ぎていくのだが。

 遥が帰り、すっかり元のさくら寮に戻った時のこと。

 ふわりと幽霊さんが姿を現した。

 今の今までどこにいたのか。

「幽霊さん? どこにいたんですか」

「あの、私はどうすれば……」

「何が?」

「皆さんが帰るとき、私はどうすれば」

 すっかり忘れていた。

(第五十一話  完)


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