第四十七話 蒼橋の雨

 7月20日、月曜日。

 真のいる1年4組のクラスは騒然としていた。

 真由から告げられた突然の悪報。

 七海が、転校する。

 それはあまりにも早すぎる転校だった。

 七海が来たのが6月3日。

 それからまだ1ヶ月と、3週間ほどしか経過していない。

 この悪報を告げた真由も教壇の上で生徒の動揺をただ見ていた。

「ほーら、静かにー」

 そういった声は、酷く不自然だった。

「とにかく、親御さんの事情で鈴原さんは今学期でこの学校を去ることになりました」

「せんせー、事情って何ですか?」

 クラスに一人はいるものだ。

 空気を読めない人間が。

 今この状況でそんなことを聞いても何の解決にもならない。

 むしろ空気が重くなってしまった。

 真由もなんて答えたらよいか。

「事情は……事情よ」

 それだけ言うと書類を配布する。

 それには水曜からの日程が書かれている。

 今週の金曜日が終業式。

 そのあとは夏休みである。

 だが、今は素直に喜べない生徒達。

 もちろん、その後の真由の話なんか頭に入らない。

「きりーつ」

 真が言う。

「れーい」

 こうしてテストが終わったのだが。

 真と彼方、遥と夕菜、瑞希と幽霊さんと他数名の生徒は残っていた。

 七海は、もういない。

「で、どう言う事だろうな」

 彼方を見る。

 彼方自身も心当たりがない。

「急に転校なんて……鈴原さんの両親、何を考えているのか……」

「そうよねぇ……」

 うーん、と考える真達。

 実際のところ七海本人から話を聞かなければ、糸口を見つけることが出来ないだろう。

 けれども、一つ分かることと言えば。

 彼方の話に出てきた、黒いリムジン。

 それが関係していることには、間違いが無さそうだ。

「よし、これから作戦会議だ!」

「ふぇ……作戦会議、ですか」

 ふよふよと浮いていた幽霊さんが声を上げた。

 他の生徒も真の突拍子もない考えに目を丸くしている。

 このまま、何も分からないで転校させるのは嫌だ。

 だからそれをどうするかを話し合うための作戦会議。

 そう言う事である。

「……でも、どこで? いいんちょでしょ、副いいんちょに木藤くんに佐野くん、それに私達……に幽霊さん。総勢8人も、どこで?」

 夕菜の問いに真は簡単に答えて見せた。

「寮に来ればいいじゃない」

***

 さくら寮の玄関が開いた。

「おかえり、しんちゃー……」

「ただいまー」

「おじゃましまーす」

「あ、どうも」

「失礼しまーす」

「おじゃましますー」

「へぇ、ここがさくら寮?」

「結構良い感じじゃなーい」

「風華さん、ただいま帰りましたー」

 ぞろぞろと階段を登っていく。

 その様子にあっけに取られた風華。

 暫く口をあけて立っていたが、レンの鳴き声ではっと我に返った。

「はっ! お茶の用意しなきゃ」

 その頃の真の部屋。

 適当に座り、荷物を置いた。

「あ、適当に座って……何してるの?」

「ん、ガサ入れ。ほら、こういう部屋にきたら、ねぇ?」

「うんうん」

「まぁ、何を探しているのか分かるけど」

 それはさておき、早速本題に移る。

 どうして七海は転校しなきゃならないのか。

 真由はこう言っていた。

 親御さんの事情と。

 親の事情で転校と言うなら、納得できるが。

 今回は訳が違う。

 何しろ当の本人の七海の様子がおかしい。

 テレビなどで転校する直前の人間が急に黙ると言う場面がある。

 あれに似ているようで何かが違っていた。

「……親の方で何かあったとか?」

「それはないな」

 彼方が言う。

「一回七海の家に行ったんだ、俺」

 全員の視線が彼方に集まる。

 そう、あれは七海が転校してきた時のこと。

 不良に掴みかかっていた七海に半ば強制的に関ってしまい、酷い目にあったときのことだ。

 その後七海の家で治療をしてもらったが。

 親の姿はなかった。

 いたのは、五十代の女性だけ。

「仕事だったんじゃないの?」

「そうじゃない。仕事でも、何て言うの……普通の靴くらいはあっても良いだろ?」

「……無かったの?」

「ちらっと見ただけだけど、その叔母の靴と七海の靴しかなかった」

 元から七海の家に親は住んでいない。

 そもそもそこが七海の「家」なのか。

「……親戚の家、じゃないでしょうか?」

「親戚の?」

「どういうことよ、幽霊さん」

「あの、親戚の家なら鈴原さんのご両親がいないのも何となく理由がつきますし」

 そして結論として。

「もしかして、鈴原さんって……家出してきた?」

 夕菜の声に、一同固まる。

 家出だとしたら、考えられるのはただ一つ。

 親が連れ戻しに来た。

 七海の両親、といううよりも鈴原というそれは財閥。

 そんな財閥の娘が家出をしたと広まれば、イメージダウンになりかねない。

「ちょ、それじゃあ何で家出してまで、この町に来たのよ夕菜!」

「そーよそーよ! 理由が無きゃどうにもならないじゃない」

 いつも一緒の3人組が珍しくケンカをしている。

 確かに七海が家出したと仮定して、その「親に事情」というやつも娘を連れ戻すということだとしても。

 肝心の七海側の行動理由が理解できない。

 そもそも家出をしても大事になるということくらい七海も分かっているはず。

 それが、財閥の娘だとしたらなおのこと。

 全国区のニュースで流れていないのが、不思議なくらい。

「でも、両親は心配するのよねぇ。私はしんちゃんいなくなったら心配だけどぉ」

「うんうん」

 皆が考える。

「うん?」

 風華がそこにいる。

「また何時の間に……ふーねぇは忍者か」

「ニンニン。違うわよ、ドアが開きっぱなしだったから」

 それでも誰か一人は気付いても良さそうなのに。

「で、何の話?」

 真がそれまでのいきさつを説明する。

 風華も必死になって聞いていた。

「ふんふん、大体分かったよ」

「大体なんだ……」

「私も知恵を貸したげるー!」

「は……いや、いいや。うん、いいや」

 頬を膨らませる風華に対して、真は何とかうまいこと言おうとしていた。

 しかし、なかなか浮かばないもので。

「だってこういう時に大人の人の知恵って必要でしょ?」

「大人の、人……ねぇ」

 真が風華を見る。

 身長156cm。

 精神年齢低め。

 そんな大人がどこにいるのか。

 その目は冷ややかだった。

「だいたい、どこに弟に会えば抱きつくような大人がいるんだよ。もうちょっと程度を……」

「いいんちょ、いいんちょ。風華さん」

 真が風華を見る。

 風華の方がフルフルと震えている。

 言い過ぎたか。

「いや、あのふーねぇ……泣かないで、ごめんね」

「……もん」

「大丈夫、ですか?」

「おねーちゃんおとなだもん!!」

 そんな感じで、話し合いは全くといっていいほど進まなかった。

***

 3時ごろになると、皆帰り始めていた。

 やはり話が進まないのが痛手だった。

「ふーねぇが邪魔するから」

「ぶーぶー。邪魔なんかしてないよぉ……」

「お邪魔しましたー」

 皆が帰る中で、一人だけ帰らずに残った人間がいる。

 彼方だった。

 玄関に座り、靴を履いてはいるものの、寮を出る気配はない。

 何かを察したのだろう。

 風華はその場から離れた。

「どうした、彼方」

「……あいつさ、いっつも彼方様、彼方様って懐いてくるわりには、肝心なこと何も話しゃしねぇ……」

 そういう彼方の背中は、酷く小さく見えて。

 その後姿からでも分かる。

 今の彼方の状態が。

 真は、ただ彼方の言葉を聞くしか出来なかった。

「最初に会った時さ、下僕だの何打の言われて、正直ウゼェって思ったさ。でも、接しているうちにそんなに悪いやつじゃないってわかってさ」

 確かに当初の真と彼方に対する七海の接し方は異常とも思えた。

 見ず知らずの人間をいきなり下僕発言など。

 しかし、その後の七海は特に暴言らしい暴言を吐かなくなった。

 多少、言い方はきついがそれでも傷つくと言う程度のものではない。

「知らないうちに、真や遥たちといるよりも……七海といるほうが、正直楽しかったし」

 最初の印象はどこへやら。

 彼方にとって七海と言う女の子は、最近では実に身近な存在となっていたのだ。

 だから、彼女が転校すると聞いた時、不安に似た感情を抱いた。

 そして、気がついたのだ。

「……俺、あいつの事が好きだったんだよ。どしようもねぇな……俺って男はさ」

「お前……」

「こんなことなら、もっとあいつに色々と、接してやればよかったよ……」

「遅くは、ないと思う」

 真が言う。

 そう、まだ遅くない。

 まだ七海がこの町にいる限り。

 好機はいくらでもある。

 七海が彼方のことを避けるようなら、こちらから足を運べばいいんだ。

「その事に気付いたのが、鈴原さんが転校した後だって言うなら遅いけど。転校する前ならまだチャンスはあるだろ?」

「真……」

「それに、このまま終わるわけにはいかないだろう」

 真が靴を履いた。

 影で聞いていたのか、風華が出てきた。

「しんちゃん?」

「ふーねぇ。ちょっと彼方と出かけてくる」

「ちょ、真……」

「……晩御飯までには帰るのよ?」

「うん」

 寮を出る真と彼方。

 行く先は、決まっている。

***

「すいません、急に押しかけちゃって」

「いえいえ」

 今、二人がいるのは七海の家。

 家と言っても彼女の生まれ育った家ではない。

 所謂、親戚の家というやつだ。

「コーヒー、大丈夫かしら? それとも紅茶のほうが宜しいかしら……」

「あ、いえ、お構いなく」

 さすが鈴原財閥の親戚。

 やけに丁寧だ。

「七海お嬢様も、立派なご学友を持たれて……」

「立派ねぇ……。俺たちが?」

「そうなんだ……」

「ところで、貴方は一体七海のどういった……」

「申し送れました。私、七海お嬢様の侍女の透子と申します」

 侍女、ようはメイドなわけで。

 透子は続ける。

 そもそも七海も家出なんて真似をするほどの人間ではないと。

 彼女がそんな事をしたにも、理由があるのだ。

 七海は元々東京に住んでいた。

 父と母、七海と妹のさやかの4人で暮らしていた。

 元々鈴原とは、先祖代々伝わる大地主とか。

 そのせいで、財閥も勢いに乗り今では大企業の一つとして君臨している。

 そんな中で、七海は人一倍妹のさやかのことを溺愛していた。

 生まれつき病弱なさやかを、七海は小さい頃から可愛がっていたが。

 近年その病状が悪化。

 家を出て入院生活を送っている。
 
 もちろん、七海も毎日かかさずにさやかの見舞いにはむかったのだが。

 それが仇となって帰ってきた。

 妹のことを心配するあまり、実生活のほうで失敗が続いていた。

 学校の成績は落ち、習い事では起こられる始末。

 父はかねてから七海を鈴原財閥の跡取りにしようと考えていたが。

 このままでは跡取りどころの騒ぎではないと判断。

 やむを得ず、東京の病院に入院しているさやかを都内から出すことを決意した。

 その先として選ばれたのが蒼橋だった。

 ある日見舞いに行った七海は、その病院の看護師からさやかは別の病院に移ったということを聞いた。

 七海は父を問い詰めた。

 それでも父は、断固として七海の意見を聞こうとはしなかったのだ。

 お前は、鈴原けの跡取りとなるべき子なんだ。

 我慢をしなさい。

 確かに、実生活が疎かになったのは不味かった。

 だが少しは自分の意見を聞いてくれてもいいじゃないか。

 こんなにも、頭の固い父だとは七海も思わなかった。

 だから、家を飛び出した。

「ちなみに私は、お父様の隆さまに言われて七海お嬢様に付き添っているのです」

「……そうだったんだ」

 透子の話を聞いて、うなだれる彼方。

 父と娘の意見の食い違いが、このような結果を招いたのだ。

 このことばかりは、真と彼方が横槍を入れてどうこう出来る問題ではなかった。

 他人の家庭問題にまで土足で上がるほど、愚かな行為はない。

「どうする、彼方……。あんな話聞いた後だけど……」

「彼方? あらあらまあまあ」

 透子が声を出した。

「貴方が、彼方さん……。あら、そう」

「……俺が何か?」

「いえ、七海お嬢様が学校から帰られるといつも話をされるんですよ。今日も彼方様と一緒でしたわって」

「ッ!」

「よっぽど貴方のことが好き、なのでしょうね」

 透子のその言葉に彼方の声が詰まる。

 透子曰く、前の学校に通っていた時の七海は何時もつまらなそうな顔をしていたという。

 だが蒼橋学園に通い始めてから、その表情に違いが出てきたという。

 それも決まって彼方の話をするときは満面の笑みで。

 見ているこちらも楽しくなるほどだと。

 透子は、言った。

「私も、なるべくこのまま七海お嬢様をこの町にいさせたいと考えております。しかし、隆様の前では……」

 やはり、絶望的なのだろうか。

 大企業の社長を敵にまわしたとなれば、無事ではすまないかもしれない。

「帰ろう、彼方」

「真?」

「何か対策を練ろう。何か……」

「……ああ、悪いな」

 真と彼方が家を出る。

 玄関を出るまで、透子が送ってくれた。

 次第に小さくなる二人の姿が消えるのを確認すると、透子はリビングのソファに座った。

「……七海お嬢様、もう、出てきて大丈夫ですわ」

「……」

 リビングのクローゼットの中から七海が出てくる。

 その頬にはうっすらと涙の跡がある。

「どうして会わなかったんですか?」

「……今会うと、余計に辛くなりそうだったから、ですわ……」

 それだけ言うと、嗚咽を漏らして七海は崩れ落ちた。
 
 膝をついて、大粒の涙を瞳から流して。

 両手で涙を拭っても拭っても、あふれ出るその雫。

「その気持ちがあれば、大丈夫ですわよ。ね、七海お嬢様?」

「と、うこさん……。ふ、ふぇ……うああああああああぁぁぁぁぁぁんっ!」

***

 期末テストが終わって、大掃除が終わり。

 終業式がやってきた。

 7月24日、金曜日。

 ずいぶんと長い校長の挨拶。

 生徒はだれていた。

 結局、今日、七海は姿を現さなかった。

 クラスの半数は、ほとんどそのことを頭の中にいれていなかったが。

 少なくとも真に彼方、遥達など先日集まった面々は、気が気じゃなかった。

 終業式が終わったのは、11時近くだった。

 体育館から教室に戻る生徒達。

 1年4組の教室では、明日から夏休みという期待感に胸を膨らませている生徒がほとんどだった。

「はい、静かにー」

 真由が教室に姿を現した。

「えー、まずは成績表を返します。青谷くん」

 ぞくぞくと呼ばれる生徒達。

 一喜一憂している。

 そんな中、彼方はただ七海の座っていた席を見ている。

 その様子を真も、遥も見守るしかなかった。

「木藤くん」

 立ち上がり、成績表を受け取る。

 その後、真由の話に移る。

 夏休みだからといって浮かれずに、とか。

 体調管理はしっかりすることとか。

 そういう話だった。

 しかしその話の最中に、軽やかな電子音が鳴り響いた。

 携帯だった。

「はいだーれー? 携帯鳴らしてるのは」

「……あ、俺だ」

 彼方の携帯だった。

 ぼうっとしていて、マナーモードにしておくのを忘れていた。

 電話に出る彼方。

「もしもし……。……透子さん?」

 反応したのは真だけだったが、その真の様子を見て遥も反応した。

 険しくなる彼方の表情。

 ついには教室を飛び出した。

「ちょ、おい! 彼方ッ!」

 真も跡を追うように教室を飛び出した。

 真由が止めようと、教師の扉から出ようとしたが。

「せ、先生!」

「……副いいんちょ」

「あの、塚原君たち、行かせてあげてください……」

「……どうしてこうもこのクラスの生徒は……。全く」

 真由が教室に戻る。

「お人よしばかりなんだろうねぇ」

***

 学校から七海の家まで、走って15分。

「なぁ、さっきの電話! なんだったんだよ!」

「……七海の、親父がッ、来たって!」

「ん、だよ……。間に合わないぞ!」

「分かってる! けど、走んなきゃ!」

 二人は、肩で息をしながら全速力で走っていた。

 もし間に合わなかったらどうしよう。

 もし到着した瞬間に出て行ったらどうしよう。

 そういうことも考えられなくはないが。

 少なくとも今の二人に、そのことを考えてる余裕はない。

 考えるよりもまずは、走れ。

 一分でも、一秒でも早く。

 七海の下に到着するために。

 彼方はサッカー部で鍛えていたから、10分くらいの走り込みくらいどうということはなかったが。

 真は、5分を過ぎた辺りからバテ始めていた。

「くっそ……喉痛ぇ……」

「おい、真!?」

「大丈夫だ、まだ……いける」

 深呼吸をして、体制を整える。

 透子の家に到着したのは、学校を出てから15分が過ぎたときだった。

 玄関先には、黒いリムジンが泊まっている。

 二人が外で息を整えていた時だった。

 玄関が開き、黒いスーツの40代半ばの男と一緒に、七海が姿を現した。

「七海ッ!」

「か、なたさま……!?」

 彼方が近づこうとした。

 しかしそれを阻むものが。

 ボディーガードだった。

「君が、彼方か。報告は受けている」

「七海の、親父さん……!」

「何をしにここに来た」

 見下すような、隆の視線。

 思わず竦んでしまう。

「……決まってる。七海に、会いに来た!」

「……」

「少しで良いから、話す時間を」

「それは出来ない相談だ」

 隆の声は、低い。

 怒気を含んでいるのかいないのか、判断がつきにくかった。

「君の願いを聞いているほど、時間があるわけじゃない。この後も会議で、押しているんだ。なるべく手荒な真似はしたくない」

「お父様!?」

「ふざけるなよ! 会議だとか、押しているとか! アンタそうやって、七海の声も何も聞かずに過ごしてきたんだろ!」

「……何?」

 今度は明らかに怒気を含んでいる。

 それでも、彼方は止めない。

「だから七海は家出なんてしたんだよ! 妹思いの良いやつじゃないかよ、七海は!」

「知ってるさ。君なんかよりも。生まれた時から七海を見ているからな」

「だったら、何でもうちょっと物分りを良くしないんだよ!」

「七海はいずれ鈴原財閥の跡取りとなる子だ。こんな、家出なんてくだらないことをしている暇はないんだ。それでも1ヶ月、見逃してやっただけ」

「有り難いと、思えと?」

 真が口を開いた。

 彼方の視線は、鋭く隆を捕らえている。

「そうだ」

「……そうやって、七海を縛り付けてさ! アンタって、人はッ!」

「君に何が分かる? 分からないさ! こんなことが表ざたになってみろ! 今まで築き上げたものが全て水の泡だ!」

 もはや、言い返す言葉がない。

 父という人間の前に、この人は七海のことを理解しようとしていないのか。

 家出をした七海にも落ち度があるとばかり考えていたが、これでは家出もしたくなる。

 緊張の糸が切れたのか、彼方がその場に座り込んだ。

 じりじりと、夏の太陽が照りつけている。

「もう言うことはないらしいな。さぁ、行くぞ……七海」

「……あの、お父様」

「……何だ?」

「もう少し、あと5分だけ待ってはいただけないでしょうか」

 自分でも図々しいと思っている。

 親に迷惑をかけたのに、この期に及んでまだ頼みごとなど。

 聞き入れてくれないかもしれないと、七海は想像していた。

「お願いします! お父様!」

「………」

 長考。

 隆は考えていた。

 その場に座り込んでいる、茶髪の少年を見て。

「……5分だけだ。それ以上は一秒たりとも伸ばすことはしない」

 座り込んでいた彼方が顔をあげた。

 隆はリムジンに乗り込んだ。

「隆様、良いんですの?」

「……言うな」

 透子の問いに、ただそれだけ返した。

 七海の声も何も聞かずに過ごしてきたんだろ、という彼方の言葉が脳裏をよぎっている。

(……とんだ粗暴な男だと思っていたが……なかなか見込みのある。もう少し、物事を考えながら口にすることが出きれば、だが)

***

 七海が彼方の前に座り込んだ。

「彼方様……」

「お前、勝手だよな……」

 そういう彼方の顔は、うっすらと笑みを浮かべていた。

「いつも懐いてくるのに、肝心なこと何も言わないでさ……」

「……」

「お前にとって、俺は……その程度の男だったのか」

「違い、ますわ。私にとって彼方様は、とても大切なお方です」

「だったら、どうして!」

 叫ぶ彼方の声は震えていた。

 七海と同じ、大粒の涙を瞳から流して。

 七海も後悔していた。

 そうだ、悩んでないでまずは相談するべきだったんだ。

 この人に、彼方に。

「出来るわけないでしょう……? 言ったら、辛くなりますもの……」

「七海……」

 暫く二人とも黙って。

 嗚咽が、響き始めた。

 それを見ている真と透子。

 非常に、悲しい気分になった。

「……七海、約束してくれないか?」

「はい?」

「良い女になって戻って来い」

「彼方様……」

「当たり前だろ。この俺の、彼女にしてやるんだから……!」

「はい……」

 ふと、七海の顔が彼方に近づいた。

 そして。

 口づけが交わされた。

「彼方様も、今よりもずぅっと、良い男になるんですのよ?」

「……任せろ」

「うしろの塚原さん、貴方もですわよ?」

「え、ああ。…………ん? 今、塚原って」

「何のことですの、下僕のくせに」

 ふっと微笑み、立ち上がる七海と彼方。

 踵を返して、リムジンのドアを開ける。

 乗り込もうとした時、彼方が叫んだ。

「約束だかんな! 絶対、良い女になって戻って来い! そうすりゃ、彼女にしてやる!」

 きっと周囲の家の人間はコーヒーでも噴いただろう。

 だけど、恥ずかしいなんて感情はない。

 彼方にとって、これはプロポーズにも匹敵するほど、大切な誓いだったから。

 振り向いた七海の顔。

 それは非常にぐしゃぐしゃで、目も当てられないものだったが。

 その笑顔が、一番印象的だった。

 リムジンのエンジンが唸る。

 ゆっくりと動き始めた。

 道路上の埃を巻き上げ、リムジンは道路の向こうに消えていった。

「……ッ、ぐッ……」

「泣くくらいなら、ちゃんと言えば良いのにさ……お前」

「泣いて、なんかねぇよ……、バカ……!」

 道路に座り込む彼方。

 真は携帯を取り出し、電話をかけ始めた。

「もしもし、ふーねぇ? うん、俺、しんちゃん。あのさ……今日の昼ご飯、一人分多めに作ってくれないかな。うん、そう一人分……。いや、ごめんね、急に」
 
***

 走るリムジンの中。

 七海は隆の隣に座っていた。

 二人とも無言で、座っている。

 すると隆が七海の頭をなで始めた。

「良い、男だな。最高じゃないか」

「……お父様」

「帰ったら、話し合おうか。色々と」

「……はい!」

 この日、彼方は少しだけ大人になった。

 そして七海も。


(第四十七話  完)


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