第二十九話 過去のトラウマと七海、暴走
6月12日、金曜日。
いよいよ関東大会地区予選が迫っていた。
気合が入るもの。
緊張しているものなど人それぞれ。
そんな中、真はいつものように彼方たちと仲良し5人組を組んでいた。
「彼方は試合に出るのか?」
「まさか。1年で出れるほどうちのサッカー部は甘くねぇよ」
彼方はベンチにも入れない。
と言うよりも1年は全員応援にまわされたのだ。
真も同じような境遇だった。
1年が試合に出れるのは早くて今年の9月の後半から。
自分がそんなに早く試合に出れるとは思わないが。
「有馬さんは、応援だっけ?」
「はぇ?」
どこか上の空の遥。
様子がおかしい。
「聞いてますの、遥?」
「あ、え、うにゃ!?」
「うん、聞いてないな」
遥にもう一度尋ねる。
遥の所属する吹奏楽部など、文科系の部活はそれぞれ応援にまわされることになる。
無所属の七海は自由応援となるが。
彼女の性格からして間違いなく彼方のところへ走るのは予想できる。
「瑞希は?」
「俺? 俺も応援だけど……どうかなぁ。うちのバレー部って結構人数がギリギリだから。もしかしたら臨時で出るかも」
「マジかよ! おう、頑張れよ!」
そんなこんなで盛り上がっているとき。
遥が口を開いた。
「ねえ、この間から気になっていたんだけど……良いかな、塚原くん」
「はい?」
「さゆねぇ、って誰?」
「ひあっ!?」
言ってはいけない禁断の言葉なのか。
掘り返してはいけない部分を掘り返してしまったのか。
真がガクガクと震え始めた。
「おー、そう言えばこの間聞いた時も禁断症状になるがごとく震えていたもんなぁ」
彼方がいう。
七海も瑞希も内心、気になっていたようだ。
思い出したくも無いが。
このままでは解放されそうに無い。
意を決した真は語り始めた。
***
そう、あれは俺が小学校1年の時だった。
当時俺は7歳、ふーねぇは10歳だった。
その日は夏休みで朝から暑かった。
じとじとした空気が家の中には流れていた。
その日の午前、俺の両親は用があって家を空けた。
昼ごはんは昨日の残りのカレーだった。
俺はふーねぇと二人きりで留守番をしていたんだが。
その時だった。
家のチャイムが鳴ったのは。
俺が玄関に向い、ゆっくりと扉を開けた。
そこに立っていたのは、さゆねぇこと「一色 紗由」その人だった。
さゆねぇはニコニコと微笑みながら、手に持ったアイスを差し出してこういった。
「遊びに来たよ」、と。
当然俺もふーねぇも喜んだ。
さゆねぇは当時11歳、俺よりも4つ年上の人だった。
3人でゲームをしたり取っ組み合いをしたり。
楽しい時間はあっという間に過ぎていったんだ。
だけど、地獄はそれから待っていた。
昼近くになって、お腹が空いた俺達は母の作ってくれたカレーを温め始めた。
すると何を思ったのかさゆねぇが「もっと美味しくなる方法知ってるよ」と自慢げに語り始めた。
美味しくなるなら。
そう思った俺はさゆねぇに全てを任せた。
それが間違いだった。
そしてそのとき初めて知ることとなった。
俺はこの時知らなかった。
自分の犯した過ちを、罪を。
何を思ったのかさゆねぇは朝ごはんの残りのサンマを一尾丸ごとカレーに投げ入れた!
頭からカレーの海に身を投げる事となったサンマ。
ゆっくりと、ゆっくりと沈んでいくその様を、俺はただただ見ているしかなかった。
何故この時ふーねぇがキッチンに入って来なかったのか。
最近になってようやく分かった気がした。
手当たりしだい物を投げ入れるさゆねぇ。
そのときの掛け声は今でも忘れられない。
「よいしょー、どっこいしょー、それぇー」
俺にはその掛け声が何か呪いの呪文にしか聞こえなくなっていた。
ふと、俺はさゆねぇの手に握られていたものに目を見開いた。
さゆねぇの手には食べかけのドラ焼きが。
俺は叫んだ、それだけはダメだ! やめろ!
しかしさゆねぇはこう返した。
「甘くなるよ?」
ならねぇぇぇぇぇぇっ!
その暴虐を阻止できるはずがなく、その後もさゆねぇの暴走は続いた。
あとで知った事だが、さゆねぇは破滅的に料理がダメらしい。
だからふーねぇは逃げたんだ。
その儀式の模様を見たくないから。
やがてカレーは何か得体の知れない料理へと変貌を遂げた。
さゆねぇはご機嫌な様子でご飯をよそっていく。
丸い、大きな皿に山盛りによそられる白米。
それに手を付けられていないのが唯一の救いかと、一瞬安堵した。
だが、次の瞬間俺は戦慄した。
さゆねぇがベースにしたのはカレー。
キレイな白米に、どろどろとしたこの世のものとは思えない物体がかけられた。
透き通るような白さが一瞬にして闇に染まったように。
そして何の嫌がらせか。
さゆねぇはわざわざサンマを探し出し、山盛りご飯の頂上に突き刺した。
もしかしたらその日が俺の命日だったのかもしれない。
俺はさゆねぇに逆らえず、無理やり座らされた。
真なる地獄はこれからだった。
俺の目の前に置かれた罪の詰まった物体。
ああ、食欲を奪われるこの見た目。
全てのやる気を「これ」に吸い取られていく、そんな錯覚に陥ってしまう。
「さぁ、どうぞ」。
俺に死ねと申すのか、紗由お姉さま。
だけどふーねぇにも負けじ劣らずのその笑顔には誰も勝てない。
「食べさせてあげようか?」
それは俺にこの危険なドラッグを強制的に喰えという、悪魔のささやき。
逃げられない。
選択肢は二つ。
食べずに逃げ出すか。
食べて死ぬか。
だったら俺は。
食べずに逃げ出す方を選んだ。
咄嗟に一歩を踏み出す俺。
そんな俺の左足にしがみつくさゆねぇ。
まるで映画などのゾンビが足にしがみついたように。
こんな時にふーねぇは何をしているのか。
とにもかくにも俺は死にたくなった。
が、神とはことごとく俺を裏切る。
ちょうどそのときくしゃみが出た。
その拍子にバランスを崩した俺は、再び椅子に座らされた。
もう終わった。
もうすでに「逃げ出す」と言う選択肢は無い。
俺は銀色に光り輝くスプーンを握り締めた。
それをすっ、と不気味な食べ物に挿した。
いや、食べ物と呼べるかどうかも怪しい。
どろりとあんかけのようなルーが垂れ落ちる。
一体俺が見ていたものの他に何を入れたのか。
そのスプーンを恐る恐る口に運んだ。
瞬間!
俺の意識が落ちた。
次に目が覚めたのは夕方、俺は布団の中だった。
***
「……と、いうことがあってな」
真が語り終えたとき、皆の表情は翳っていた。
「ごめんなさい、変なこと思い出させて……」
「俺、心底カレーが怖いと思った事は無いな……」
「サンマ……カレー………ドラ焼き……」
それ以上は誰も口を開かなかった。
そんな話を終え、授業の準備をする。
次の古典の時間は今の話のおかげで起きていられそうだった。
***
さて、昼休み。
真は遥達と一緒に学食へ。
ここのところ学食に来る事がなかった。
実に久しい。
「俺、Aランチー」
「じゃあ俺はBランチー」
「じゃあカレーの大盛り」
チャレンジャー瑞希。
食欲には勝てないということ。
「私もAランチがいいな」
「私はBランチをお願いしますわ」
それぞれの食事を受け取り、席に座る。
最近は色々と忙しくてゆっくりとご飯を食べる暇さえなかった。
風華が学校に来たり、昼休みなのに振り回されたり。
何だかこの光景自体が久しい。
「…………」
ふと、誰かに袖を引っ張られた。
見てみるとそこには杏里がいた。
無言で真を見ていた。
「どうかしたんですか、先輩?」
「一緒に、食べる?」
何故か疑問系。
都合の良い事に隣の席が一つ空いていた。
杏里がそこに座る。
持っているのは彼方と同じBランチだった。
「ひなた先輩達とは一緒じゃなかったんですか?」
「ん……はぐれたの」
昼間は混む。
分からないでもないが。
ひなたが自分を見つけてくれるまで、真達といる事にしたらしい。
運よく彼らを見つけることが出来て良かったね、杏里。
パクパクとBランチを食べる杏里。
何故か七海がそんな杏里をじっと見ている。
「ん、どうした? 七海ー?」
「……か」
「か? かゆいのか?」
「違うと思うなぁ……」
突然七海が立ち上がり、杏里を抱き上げる。
「ふわっ?!」
「可愛いですわー!!」
何事かと思った。
頭を撫でたり、頬ずりしたり。
先輩だという事を忘れているらしい。
「ど、どうしちゃったの……?」
「さあ?」
「彼方、どうにかしろ」
Aランチの魚をほおばりながら真が言う。
彼方もどうしたら良いか分からない。
が、真が続ける。
「周囲を見てみろ」
そういわれて周りを見る。
七海を、道行く生徒が見ている。
そのせいで真達も変な目で見られているのだが。
このままではおちおち昼飯も食べれないと、判断したのだろう。
彼方が出撃した。
「なぁ、七海?」
「あら、彼方様〜」
いつもと違ってどこかほくほくしている。
まるでぬいぐるみを抱くかのように。
当の杏里もまんざら嫌がっていない様子だが。
「なあ、落ち着こうか。結構目立ってるぞ?」
「あら、そうですの。残念ですわ〜」
杏里を椅子に座らせ、軽く頭を撫でてみる。
ふわりとした杏里の髪がなびく。
結局七海は何で杏里をあんなに気に入っていたのか。
「あ、いたいたー。杏里ちゃん」
ほんわかした声。
ひなたその人だった。
「塚原さん」
「ども」
「ひなちゃーん」
杏里が手を振る。
ひなたが杏里の隣に座る。
「一緒にお食事、良いですか?」
「ええ、まあ」
どこかぎくしゃくしている真。
それを遥はじっと見ていた。
で、先ほどの話に戻る。
七海は何故あんなに暴走したのか。
「私、小さい人とか大好きですの」
ただそれだけのこと。
杏里の身長は146cm。
小さい。
「小さい人とか見るとついつい……ね?」
まあ、誰にだって好きなものとかあるが。
それにしても今のは酷かった。
すっかり先輩と言う事を忘れていたのだから。
「塚原さん、今日の部活なんですけど……」
「はい?」
「一年生の方は自由参加となりましたので、先に帰っても良いですよ。来週の木曜日までは2、3年生が試合に向けての練習になりますので」
そう言うことだ。
別に帰っても良いのだが。
帰ったところで風華とレン、もしくは涼子に絡まれるのがオチ。
残って練習を見ていく方が自分のためになるかもしれない。
真は残ることにした。
「ひなちゃん、そろそろ時間……」
「あう、もう10分しかない……」
移動教室だろうか。
急いで食器を片付けると、真達の席から離れた。
「ねぇ、次って体育じゃなかったけ……?」
「そういえば」
「今の先輩、「あと10分しかない」って言っていたような……」
瑞希の言葉ではっとなる。
時計は今12:50分を指している。
ちなみに午後の授業の始まりは1時から。
真達は死ぬ気で走り、着替えを済ませた。
ジャニーズなんか目では無い早着替えだったとか。
間に合うわけがなく、五人は遅刻。
罰としてグラウンド5週を命じられたのだった。
***
6時間目のLHRも終わり。
真は弓道場へ向う。
1年生は自由参加と言うことだったが。
「おう、塚原」
部長に捕まった。
「どうした。今日は1年、自由参加だが?」
「いえ、寮に帰ってもどうせ色々な人にかき回されるのがオチですから」
部長に豪快に笑われた。
部長が言うには本当に今日は1年生は何も出来ないとの事。
練習を見てもらうことも何も出来ないという。
それでも真は構わなかった。
自分が何も出来なくても。
今後のために見ておきたかった。
今日の部活、頭からつま先までずっと試合形式の合わせをするとの事。
空気が張り詰める。
弦を引いたときの軋んだ音だけが道場には響いていた。
空気を裂いて矢が放たれる。
それは一直線に的へ。
当りこそしなかったものの、的のかなり近くに矢は刺さっていた。
実際の試合の緊張感など、この非ではない。
そんな合わせが1時間30分続いた。
「それではー、今日の部活はこれまで。姿勢を正して、礼!」
『ありがとうございました!』
部活が終わった。
現在午後5時30分。
部活の後の片づけを手伝う真。
こういうときに一年生がいないというのは不便。
「塚原くん、ありがとね。助かるわ」
陽や他の部員に感謝される。
何にせよ、試合まで残り一週間。
自分にできることをしようと、真は思った。
(第二十九話 完)
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